当事者でなければ分からない/踊る阿呆に見る阿呆

「当事者でなければ分からない。当事者でなければ分からない」と自分に言い聞かせるようになったのはいつからだったか、今では思い出せないけど、ブログを書くようになって、町のことを調べようと決めて、それを小説にしようと決めた頃からだろうなとは思う。

は?なんでその過程でそんなことを?繋がりが分かんないんだけど…と言われればその通りで僕だってよく分かんないんだけど、とにかく「当事者じゃなきゃ分からない」ということを思い知らなければ僕は人の営みを観察するということができないと思った。

そしてただ観察し、意見を持たない目となって始めて物語というものに近づけるのではないかと。

小説という形式に興味を持ったからこういう考え方になったのか、こういう考え方だから小説という形式が相応しいと思ったのか分からないけど、うまく説明できないけどとにかく「当事者じゃなきゃ分からない」と考えるのは僕にとって重要。

そしてもう少し実生活のコミュニケーションとか人を見る目という観点で言えば、「分からない」ということを思い知ることが、逆に誰かを知る手がかりになるんじゃないかなと思ってる。

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カラパイア面白いよ

ニュースは基本的につまらないから見ないんだけど、積極的に見ようと思わなくても耳に入ってきてしまうものです。

普通にテレビでニュース見る時間あるならカラパイアとか見てた方が有意義だなって思ってて、そんな訳で僕は世情には疎いことこの上ない。けどどうせ二月前のニュースなんてほとんどの人は覚えてないんだから問題もない。

すべてのニュースが無用だとは思ってないけど、不倫だの汚職だのスキャンダル的なことの比率が高い気がして、まるで人の失態を見て楽しむメディアとなってるのだからそれこそ教育に悪いんじゃないかと思う。

最近で北海道ではしつけと称して山に置き去りにされた子が依然行方不明という報道がしきりとされていて、それ自体は、「え、うちにいるよ?」みたいな人がいないとも限らないので情報として公開した方が良いだろうけど、スタジオではどこからどこまでがしつけかとか、虐待じゃないかとかそういう話になって、ついつい蚊帳の外から何を言ってるんだろうこの人たちはって思ってしまう。

蚊帳の外から正論を吐くことは馬鹿にでもできる。

「蚊帳の外」という言葉はただの部外者というより「仲間はずれにされる」というイメージが強いから違和感があるかもしれないけど、当事者は当事者以外のことなんか考えてないのだから疎外されているんだと思う。

正しさは揺らぐし、人はいつも正しい訳じゃない。一般的な正しさを振りかざして過ちに至るまでの過程を想像できないのは馬鹿だ。

踊る阿呆に見る阿呆

こうやって考えてしまうこと自体余計な意見だと思うし、僕が衝動的にコメンテーターとかを見て「この人たちは馬鹿なんじゃないか」と感じてしまうのも言わば「蚊帳の外から正論を吐いてる状態」です。ほんとうに正論かどうかはともかく。

よって僕もバカ。

「踊る阿呆に見る阿呆」なんて阿波踊りの冒頭が脳裏に過るけど、続く「同じ阿呆なら踊らにゃ損損」までいって同じようにしたり顔で正論らしきものを吐いているようじゃ本当に脳内がお茶の間クオリティのお祭り騒ぎになりかねない。

ニュースを見るとバカになるっていうのはこういう点でごもっともだと思う。だからニュースは見ないでカラパイアとか見てる。深海魚こえーとか思ってる。

「当事者じゃなきゃ分からない」んだ。この人たちだって、意見を求められるからそれらしいことを言わなきゃいけないだけで、本当はもっといろいろなこと考えたり感じたりしてるに違いないけど、時間が悠長な思考を許さないし、ハンパに変なこと言ったら痛い目見るし、結局当たり障りのないことを言うしかないかもしれない。

こういう風に思いなおせれば、コメンテーターを見ていちいち腹を立てることもなく、大変だなあって思えるんだから「当事者じゃなきゃ分からない」と考えるのは僕の精神衛生上とても重要なのです。

他者を知るための距離感を取るという目的で

「当事者じゃなきゃ分からない」って考えるのは諦観にも見えるかもしれない。

大人な対応というか、「ヨソはヨソ、ウチはウチ」ってやつと一緒だろうかって。

これはどちらかというと他者を受け入れないための論法だと思うから、僕が誰かに嫌悪感を抱いて何か言いたくなるとき頭の中で唱える「当事者じゃないと分からない」はちょっと違って、これはその人の現状というかそこに至ったまでの過程に思いを馳せる方法です。

例えばそれこそニュースとかだとけっこう信じられない事件がありますよね。ひき逃げしてしまったとか、ダメな薬に手を染めたとか、あとは不倫をしたとか。

ありえない信じられないバカじゃないかって一瞬思うけど、当事者じゃなきゃ分からない。

その行為そのものの以前に、その人と同じ環境で過ごし、その人がかけられた言葉を実際にかけられ、その人の両親に育てられ、本当に同じ状況に置かれても僕は同じことをしないだろうかって考えると、全然自信がなくなる。

きっとお昼のスタジオでコメンテーターが当たり障りのないコメントを吐いてしまうように、その場にいたらそうするしかない、その道しか用意されていないってことがけっこうあるんだろう。

たしかにそこに至るまでのストーリーを人は想像して、エンディングが最悪だと思えばある地点で引き返したり助けを求めたりするもので、それが出来るかどうかが実際に過ちを犯す人と犯さない人の違いなんだろうけど、最悪なストーリーに巻き込まれてしまった不運と呼ぶ方が相応しいんじゃないか。

罪を憎んで人を憎まずと言った人や、法を作り上げた人は多分そういう考えを持ってるんだろうなと思うし、法は人を裁くためではなく救うためにあるものなのだろうなと思う。

あの時代を知るために

さてでも僕が言いたかったのはこういう話より自分が今調べて考えてることについてです。

僕が生まれるずっと前の昔の話、戦時中の僕の故郷、じいちゃんが子どもの頃のこと。

こういう時代の、僕は当事者になれない。

どう頑張っても当事者にはなれず、誰かにお話しを聞いていても自分は蚊帳の外にいると思ってしまう。

だからこそ、あの時代はこうだったとか、戦争一色のバカな時代だったとか、そういう風に自分の価値観で断ずるのは避けるべきだと思う。

あの時代はあの時代、今は今と考えるのではなく、あの時代のことを知りたいから。

それが正しいのか、本当にできるのかは分からないけど、心構えや好みの問題としてなら、とりあえず間違ってはいないんじゃないかな。

当事者でなければ分からない/踊る阿呆に見る阿呆(完)

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