このブログで扱っている話題。

このブログはどんな話題を扱っているのか。

僕にはこれと言った方針はないのですが、気になったことを気ままに更新していきますって訳でもないです。

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町おこし、田舎ブーム

初めは「町おこし」のための情報ブログを作るつもりでした。僕が住んでいる、北海道士別市にある朝日町という、人口1500人以下の町を、どうにかもう少しだけ賑やかにできないかと思ったのが最初。

だから朝日町の魅力を情報、発信するブログ、他の町はどんなことしてんの?って「町おこし」に関する情報を集めたブログ、になっても良かった。

しかし、僕はそもそもいわゆる「町おこし」という言葉には疑問がありました。

何でもないところに無理やり見どころ作って観光地化することとか、名産品を開発するとかゆるキャラを作るとか、そういう夕方のニュースの話題みたいなものが町おこしのイメージとして強くあるけれど、人集めて今年は何人が遊びに来て、これだけの経済効果があったよって言われても何とも思いません。

田舎暮らしとか、移住とかスローライフとか、生活そのものとかでも田舎は人気が高まっているようで、だからこそローカルな情報、魅力を発信というのは確かにそれなりに価値があるのかもしれない。

でもなあ、別に魅力なんてどこにでもあるしなあ。

例えばここでしか食べられない食材を使った郷土料理とかってあったら、こんなのなかなか食べられませんよ、都会でこれ買おうとしたらすごい高級食材だこれは贅沢だみたいな話になるんだと思うんだけど、そんな希少価値的なこと言ったら東京にあるどこかの小さなお店の料理だって同様に貴重ですよね。そこでしか食べられないんだから。

貴重で珍しいからといって美味しいかどうかは別だし。

付加価値なんて言いようで、価値があると言えばあるしないと言えばない。

興味があれば価値があるし、興味がなければ価値もない。

田舎の魅力なんてものも絶対的ではなくて、幻覚とか錯覚のレベル。

だから田舎への注目が集まる時代であり、田舎の情報の価値が上がる時代だけど、そういう流行りのライフスタイルに田舎が使われるって事実を前にして、僕は特に熱いものは感じません。

花見みたいなもんで、花が咲くと人は集まるし、散ればなんだこんなとことか言って去ってしまう。

文明はなぜ崩壊するのか

田舎の価値とか魅力とか風情は基本的には何も変わっていないと思います。

変わったのは人の田舎の見方であって、価値観です。

じゃあなんで人の価値観が変わったの?と考えれば、色々と理由はあるんだろうと思います。

キーワード的なものを並べるとすれば、不景気で就職氷河期でブラック企業で低賃金で労働時間超過で精神消耗率が異様に高くまさに心を失くした忙しい時代が、今の生き方に疑問を抱く人が多い背景の一つにあるのでしょう。

先が見えない、いや先が見えすぎるからこその絶望がある。

何歳で年収いくらないととか、何歳までに結婚して子供産まないととか。

そういう基本的な大きい柱があるだけで、人生は全て逆算的な発想になるのではないでしょうか。

どこの大学行くかでその後の人生違う(ように見える)し、どれだけ早くから就職活動に身を入れるかで人生が違う(ように見える)し、めでたく就職してもダメだこの会社じゃ安月給過ぎて結婚なんて夢のまた夢、てか相手もいねえし仕事ばっかで出会いもねえみたいになったら転職考えないとダメじゃない?今すぐ?でも1年で仕事辞めたとかってどうやって説明すりゃいいんだよって話になるからもう何年か様子みるかって。

時間とか年齢とかって便宜上のものでしかなくて、人間が作り出した文明の賜物です。

あらゆることに個人差があり、時間の流れ方にも個人差がある。

楽しいことしてるとアッと言う間に過ぎて、楽しくない時間は無限のようにも感じるのが時間、というか人間で、それぞれ違いすぎるからめちゃめちゃ厳格に統一しなきゃならないんだと僕は思います。生物学的な老化とかはとりあえず別にして。

でも今はその便宜上の道具に生かされている。僕らが時計を見て動いてるようで、実のところ時計に動かされている。

文明が進むと、時間が足りなくなっていきます。

交通が発達すれば僕らの移動は楽になったでしょうか?その時間内に移動できる行動範囲が広がっただけで、大変さは全然変わってない。

午前中東京で仕事して、午後に沖縄で仕事ができるようになっただけ。

こなさなければならない質量・嵩が増えただけで、これはスケールを代えても道具を交通から通信に変えても変わらない。

便利なものを使っても人は楽にならないし、余裕も増えない。なんのために発展してきたのか分からなくなる。

そんで段々、余裕とか自分の時間ってのは作るもんだってことになる。

つまり利器とか便利っていうものを産み出す文明に限界が来ている。

いや文明はどんどん発達すべきだと思います。

だけど文明に生かされるのではなく、あくまで文明は利用してより楽ちんに愉快に生きなくては。

文明はハムスターが使う回転車のような形をしています。

漕ぎ過ぎて、回転が速すぎてやめどきが分からねえ、やめたいけど足が止まらねえ、無理に降りたら100パー怪我しますって状態。もうそれじゃ文明に色々な権限が移ってしまっている。

使いこなさなきゃ。便利なものは便利に、愉快なものは愉快に。それができなくなった時点で、文明は崩壊が始まっている。

それが上手にできる人がデキる人であって、そういうスキルを持っているかどうかが人生を充実させられるかどうかの分水嶺になる。

インスタントなもので言うと効率よく仕事して短い時間で稼ごう、読書は大事だ速読しよう、3日でマスター英会話みたいのが流行する。

その流れで、田舎暮らしとかスローライフみたいなものが流行りとしてあるのだと思います。

文明に飲まれず、自分の時間を生きるためには単純に文明の発達してない田舎が適していますから。

そういう意味で田舎は花盛りなのではないでしょうか。

そんなようなこともこのブログでは取り扱いました。

どれを挙げれば分かりやすいか分からないけどこんなようなヤツとか色々↓
なぜ文明は崩壊するのか。なぜ夫婦やカップルの関係は破綻するのか。きっと原因は同じだ。

文化的な土台を創る

そもそも文明と文化について考えたのは、僕の住む町からは40分程車で行ったところにある、剣淵町というところに行ったのがきっかけでした。

剣淵の夜①絵本の里けんぶち/文明と文化~文化を創るということ

文明に先に疑問を抱いたワケでも、文化の大切さを先に学んだワケでもなく、同時に考えたことなのですが、この剣淵町での体験で、文明にはいつか限界がくるし、その文明に傾きすぎた状況を救うのが文化だと言う考えを知りました。

ブログの流れ上、先に触れたのはこの剣淵での話、文化を創るという話なのですが、常に対として「文明」というものに対する疑問があります。

このブログの始めのテーマに寄せて考えれば、町おこしとかって何も町が経済的に潤うとか、どれだけの人が集まるとかっていう数字的なものに限らないんじゃないかって言う考え方が、絵本の里と呼ばれる所以たる、「絵本の館」設立当時の剣淵にはあった。

町おこしとか田舎の素朴さとか風情、人情までお金儲けとか優越感の道具になってしまって、素敵さに見せかけた「有利さ」ばかりが発信される世のなかになって、文明の、自動で肥大する資本主義的なパワーを削るための方策が田舎にあるという人々の感性はやはり一定のラインから文明に飲まれてしまう。

文明に対するカウンターパンチが、文化です。

文明が「明らかになったもの」だとすれば、文化は「になるまでのあれこれ

文とは文字であり、意味です。

文字がなかったら…と考えたことがあるでしょうか。

例えば「あの薮には蛇が出て危険」という情報があったとして、文字がなければ言葉で伝えるしかありません。

村のみんなを集めて、「あの薮には蛇が出て危険だぞおー!」って言わなきゃならない。集められなかったら一人一人に、あの薮って?って話になったら丁寧に説明しなきゃならない。

だけど文字があれば、薮に向かう道のところに看板で

「蛇出ます。危険」

と書けばいい。一回書けば良いし、残しておける。

文字は利器であり、便利のためにあるのです。

使う能力さえあればみんなが使うことができるのが文明です。使う力があれば平等にその恩恵を受けられる。

文字だけでなく、時間、お金、常識、交通、通信技術、政治、法律。

そういったものは全て利用するための文明の利器であり、文字を読むには文字を知らなければならないように、「共通認識」があってはじめて成立する道具です。

しかし僕らはけっしてそれらを前提に生きているワケではない。

お金に価値があるんじゃなくて、「価値観」っていう形のないもの、計量化できないもの、統一できないものを無理やり統一するための道具がお金です。

法律を破るから悪いのではなくて、何が悪いと思うかも人によって違うことだから法律でどこからがルール違反なのかを定めるんです。人は感情に突き動かされて間違うことがあるから法律でけじめをつけているのです。

それらが生まれるまでには、途方もない不便があり、苦労があり、試行錯誤があった。お金も法律もまだ変化している途中ですもんね。

文化的な時間なくして、文明は生まれません。

だけど今の忙しい時代、目まぐるしく時計が回る時代、スピーディに価値を生むこと、便利を生むこと、有利を生むこと、形を作ることにやっきになって、つまりどれだけスローライフとかってマイルドなことを言っても文明的なものが先立つ競争社会であることに変わりなく、文化的な要素がないがしろになりはじめている、と僕は感じる。

町おこしだってマイルドで洗練されていない競争だ。

どこかよりも優れたものを素早く提供しなければ。珍しいものを作らなきゃ、魅力的な演出をしなきゃ。じゃないと人が来ないだろう。

何か良いアイディアはないか。この町が注目される何かはないか。

そんな生き馬の目を抜く思考回路が蔓延っているように僕には見える。

売り上げのために笑顔を売る商売のように、田舎の長閑さや星空を商売道具にする浅ましさが僕は嫌いだ。

お花見を楽しみたいという気持ちは平和で微笑ましくても、他を押しのけ、欺き、我が我がと桜の木の下を目指すのであれば、やってることは競争じゃないか、全然風流じゃないじゃないかって思う。

競争の気持ちがあるのなら、当然争いがあると思う。どれだけ穏やかな戦線でも、牧歌的な景色に包まれていても、田舎が都会的な基準で競い争う場所になるのは嫌だ。

少なくとも僕の町がそんな自家撞着気味の田舎ブームに翻弄されるところは見たくない。

だから僕は文化的な土台を作りたいと思う。

あなたにはモモを読む時間はあるか/ミヒャエル・エンデと文化的なものの役割

どうやって伝えよう、どうやって表現しよう、どうすれば理解できるだろうとゆっくり考えられる場所。

そんな、伝達や表現や理解にかけることに許される時間が少ない今の時代、誤解や不理解が生まれ、コミュニケーションの崩壊が生まれ、コミュニティの崩壊が生まれ、小さな町も大きな国も、ちぐはぐと行き違いだらけの消耗合戦になっている。

都会の生きにくさや人間関係の希薄さ正体が文明(共通認識→みんなこうだよねとか普通こうだよねという同調圧力とか)が発達した故の不理解にあるのだとしたら、文化はそれに対抗する力となり、理解(しようとする力)を生む土台となる。

自分達で創る社会

桜が見たいなら、自分で植えれば良いじゃないか。

大変かもしれないし、すぐには見られないかもしれないけれど、用意された桜には限りがあるから、自分が楽しむものは自分でこさえよう。

そんな風に、身近なあらゆるものを自分で創る時代がこれから来る、という前提に立ち、そういった創造社会に向けた準備を行う学問があります。

僕が臨む(望む)学問/個人で社会の仕組みまで作る時代に

創造社会論という講義がネット上で視聴できるので、このブログではそれを参考に記事を書くようにもなりました。

伝える技術というカテゴリーはこういう風に始まりましたが、正確にはこれを機に「創造性を刺激する伝え方」をブログで実践できないかと考えるようになったのです。

創造性とは…と言いだすと長ーくなってしまうのでここではあまり詳しく書きませんが、単純に創り出すことではなく、理解しようとすること、理解してもらおうとすること、何かを産み出そうとするときに何を考えるかという漠然と広い領域の話しです。

以上、今までの流れを簡単に振り返って書いてみました。根底にこんな流れがあると思えば、僕の書く記事の意味不明さが多少和らげられるかなという試みです。

創造のコミュニティ/広い間口を用意し、創造に興味がなくても創造的になれてしまう仕組み

正解を自分で創る時代。/このブログは創造性を刺激する情報を発信できるだろうか

このブログで扱ってる話題(完)

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