学びの場としてのまちづくり/幸せな人生に正解はなく、ただ発見と納得がある

このブログのキーワードは「まちおこし」「コミュニティ」「創造」という3つが中心になってきています。

この3つを並べて眺めると、「ああ、こいつはアートでまちおこしがしたいんだな」と思われるかもしれません。

だけど僕が重点をおいて考えたいのは、実のところ「学び」の領域であって、アートを産み出す活動で以って集客しようとか、有名になろうとは考えていません。

文芸を志す人にうらやましいと思われるまちを作りたい
↑時間が経って、少し考え方が変わっているかもしれない。今は文芸で何らかの成果を得たいと強く思っています。しかしこれ以降、本記事で書く意見や大きなゴールについての意見は変わっていないようなので、良ければ読み進めてみてください。

では「学び」に重点を置くとはどういうことか、それと創造とどういう関係があるのかを、今回は書いていこうと思います。

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学問と芸術に共通する感動の形

勉強する意味を考えて何になる。

とほぼ同じことを言うことになるかもしれませんが、「学びの道」は「創造(芸術)の道」ととてもよく似ています。

どちらもまだ出会っていない「正解」に辿り着くまでのプロセスであり、辿り着いたものは一種の完全性や美と言った性質を持っている。

その性質とは、「一目見てこれが正しい形なのだと分かる」ということでしょう。

もっと崩して言うと、「理屈抜きで好きである」とか、「妙にしっくりくる」と言った感じ。

だから「正解」と言っても自分だけの正解であり、かつ普遍的な正解っていう一見矛盾した掴みどころのないもの。このブログではよく「好ましさ」と言い換えています。

これはこのブログで幾度か書いていることですが、音楽でも絵でも文章でも何でも良いんだけど、芸術の領域にあるものってどうして優れたものと劣ったものの区別が一瞬で出来るのでしょうか。

歌は上手に歌えなくても、楽器に触れたことなんかなくても、歌や演奏の素晴らしさは耳で聞いてすぐ分かる。感動できる。

再現なんてできないしどうしてその演奏が素晴らしいのかなんて説明できないのに、良いか悪いかだけは分かる。

常々、本当にこれが不思議だと思っているのですが、なぜこんなことが起こるのかと言うと、僕たちは予め「正解」を知っているのだと考えることができます。

好ましい形、完成した形を僕達は生まれた頃から知っていて、それに出会う度に、どんな年齢だったとしても感動ができる。

この感動は芸術(創作物)に触れたときにも、学問を積んで何かに気づいた瞬間にも共通する類の感動であって、決して人に与えられて得られるものではないし、教えられたからと言って納得できるものではないと思います。

学びの場を提供するってエラそう

「学び」に重点を置いたまちおこしというと、子供のために実になる体験を提供できる何かを作るのかと思われるかもしれません。

それも誤解で、少なくとも僕は子供に「学びを与える」というのは随分偉そうな態度を取る大人だなと思います。

というか子供が何かを学ぶお世話をするくらいなら僕が学びたいことが山ほどあるので、そんなことを考えている暇はないのです。だから、「学び」に重点を置くというのは僕が主語であって、あんまり人のことは考えていません。

学びは誰かに与えられるものではなく、あくまで個人が勝手に形作るものだと思うからです。

そうやって、自分で苦しんで得た正解でなければ、「正解」には至っても「納得」に至ることができず、感動なんてできないと思うから。見つけたものに納得なんてできないと思うから。

子供に何かを学ばせるという大人は、たぶん学ぶことに満足してしまったガチガチの大人なのです。

例えば農作業体験をしたら、食べ物のありがたさを学んで好き嫌いが減れば良いでしょうか。農家さんの苦労を知っていただきますを言えるようになれば良いでしょうか。

良いには違いないけど、学ぶべき目標がある学びというものはときに人の思考や行動を限定してしまう嫌いがあります。

学びと創作には似ているところがあると過程するならば、大人が子供に学ばせるというのは、創作を止めてしまった大人が、現役でモノを作り続けている芸術家に口出しをするような滑稽さがあります。

ほら絵具とキャンパスを用意したから絵を描きなさい、創造は楽しいものだよと知った風なことを言っておいて、子供がそのキャンパスを破いてペタペタ工作しはじめると違う違うそうじゃないって言うような。

思考や行動が限定されまくった人間の期待するように思考し行動していたら、同じように限定的な人となるのが普通だと思うのです。

幸せは「発見」+「納得」=「感動」の集大成。

しかし教育は、やはりそんな大人の期待するような思考や行動を習得する場所のような気がします。教育されていた時代を思い返してみると。

ご存知の通り、大人になるにしたがって、こう生きるべき、こう考えるべき、こう振る舞うべきということは多くなっていきます。

そういう「べき」を丁寧に踏んでいけば、創作を止めた大人が言うところの「幸せ」は達成できるかもしれませんが、発見も納得もなく、故に感動もない人生を形作ってしまう恐れがあります。

創造することをやめ、頭が固くなるに従って、思考も行動も限定的になっていく。自分で幸せというものを形作るのではなく、いわゆる世間一般で言う「幸せ」という限定的な形に自分を合せようとするようになる。「平凡だけど幸せな人生」とか言う。

「人生は学びの連続だ」と言えば多分反論する人はあまりいないと思うけれど、じゃあ学びと創作は似ているという仮定の上で、「人生は創作の連続だ」と言えば、違和感を抱く人もいるかもしれません。

いやでも紛れもなく人生は創作の連続でしょう。

幸せというものは不定形で、人の数だけ答えがあり、理屈ではなく好ましさだけ、一瞬の泡のような感情だけで判断されるまさに芸術のような代物なのですから、少なくとも人生に理屈抜きの好ましさ=「幸せ」を求めるのであれば、創作活動と同じです。

「発見」+「納得」=「感動」の方程式が学びの瞬間と創作の瞬間にはあって、その公式は定型だけどバリエーションは無限みたいな感じなんだと思います。

これが芸術において普遍性と独走性が同居する仕組みなのではないかと。

と言ってもやっぱなんも論理的な説明もできないし、むしろそれを説明しようとすればするほどチープな表現になってしまうんだけど、毎朝それを見るだけで嬉しくなっちゃうような、それがあると思うだけでソワソワしちゃうような何かで人生が満たされれば、正解ではなくても自分にとっては目もくらむような美しい世界が展開される訳で、それは幸せ。

そんな創作活動の旅のコンパスとなるのは頭の固い人間が作った「正しいかどうか」ではなく「納得できるかどうか」だから、獲得するにはそれなりに大変だし時間もかかるけど、真剣にやる価値があるのではないかと思います。

幸せを創作できる町をつくる

そして結論というか冒頭に戻るんだけど、僕はあくまで自分の人生を満足させるために、自分の町をそういった学びの場にしたいと思っているのです。

だから誰かにこれを学ばせようとかって考えはあまりないけど、多くの人が自分のやり方で何かを学べる間口の広い学びの場になったら良いなとは考えているのです。

だから大人とか子供とかあんま関係ない。

この町は誰かの「いいなこの感じ」とか「毎朝ワクワクする」というような感情を追求できるようなフィールドになれば良い。

正解を作るのではなく好ましさを作る。

それに時間がかけられるという贅沢な場所作り、という僕の創作活動。

だって何となくだけど、「正しさ」より「好ましさ」が集まった町の方が良い町な気がしませんか。

これを大ざっぱに、誰にでもとりあえず伝わる最大公約数的な言葉で言えば「まちづくり」になるのです。

学びの場としてのまちづくり/幸せな人生に正解はなく、ただ発見と納得がある(完)

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