『フルサトをつくる』を読んで②/飽きない田舎ってなんだろう…。

フルサトをつくる』を読んで考えたことに関する記事は、全部で4本書く予定です今のところ。

本日はその2回目。

スポンサーリンク
スポンサードリンク

田舎は飽きるぜ!

田舎に拠点を作ったとしてもそのうち飽きて使わなくなってしまうという問題はどうしたらいいのだろう。リアル故郷だと盆正月とか法事といった定期イベントがあって人を定期的に招集する役割をしているけれど、新しく作るフルサトの場合は何をすればそこに人が集まり続けるだろうか。

田舎に限らないことだけれども、人は必ず一定の刺激には飽きるし、慣れるものです。

田舎暮らしというのも初めは刺激的な経験の連続かもしれないけれど、2~3年も同じところに住んでいて、田舎の暮らしが日常化すれば必ずそれほどの刺激ではなくなる。

慣れれば居心地の良さに変わる刺激もあるけれど、多くの場合、慣れた刺激というのは「飽き」に繋がります。

『フルサトをつくる』で上に引用したような文章を読むまでもなく、田舎暮らしに飽きるという問題は田舎暮らしを選ぶ人が増えるにしたがって顕在化しつつある。

実際田舎って飽きます。田舎ならではのことってそりゃあるだろうけど、それって都会より優れているということにはならないし、珍しいから最初は新鮮なだけ。

実際やはり選択肢で言えば都会の方が豊富だったり、新しい刺激を得るまでのハードルが低いものですから、同じように暮らしになれるにしたって、やっぱり長く居て「飽きたり倦んだり」することが少ないのは都会でしょう。

「せっかく田舎にいるんだから山とか海で遊べばいいじゃないか」とか言われたりもする。確かに山も川も海も近いから、山を歩いたり川で泳いだり海で釣りをしたりはいくらでもできるし、そういったアウトドアな楽しみについては充実しているだろう。

でも、山や海で遊ぶだけで完全に満足できるのはよっぽどのアウトドア好きだけで、多くの人はもうちょっと都会的な文化要素が日常にないと寂しいんじゃないかと思うのだ。

同感です。

僕は外で遊ぶのも嫌いではないけれど、川に行くとか山に行くってやっぱり準備ちゃんとしなきゃとかって精神的なハードルが高いし、本格的になればなるほどお金がかかるという問題もある。

どちらかというと内向的で、インドアな遊びを好む僕にとっては、田舎で田舎らしく過ごすことで毎日が充実するということはないのです。(ちなみに朝日町は超内陸なので海はない)

それこそ、僕がアウトドア的な遊びをするのであればそれは非日常を体験する刺激となり、とても楽しめると思う。

だけどそんなアウトドアな生活が日常化してしまうとそんな刺激も薄くなるから、刺激を取り戻す工夫が必要になる。

だけどそれって結局、「消費行動の欲求」を満たすための方策ですよね。

田舎暮らしにかかる期待/消費行動の延長としての人生に終止符を」にも書いたけど、田舎暮らしって選択肢がただのプランBになってしまえば、結局田舎暮らしを買ったというだけで、「田舎で田舎らしく暮らす生活」を選んだというだけ。

「自然と共に、のどかな生活を」っていう商品を買ったに過ぎない。

それだって悪くはないけれど、新鮮味がなくなって飽きてしまえば不便な田舎は価値が半減してしまいがちです。

新しいもの珍しいものははじめ刺激的だけれどすぐに飽きます。

田舎暮らしだってただの「流行」になってしまえば、飽きる人が続出となるのも当然でしょう。

僕は朝日町で流行を作りたい訳ではなく価値を作りたい訳だから、町づくりを考えるとき、もっと恒常的な満足や絶対の新鮮さ、飽きなさを追求しなければならないと思う。

飽きないってなんだ!?

恒常的でありながらいつも新鮮であるというのはどうしても無理のあるお話のような気がします。

恒常的っていうのはいつも一定で、長く安定して続くってイメージの言葉です。

それと新鮮さの両立って、矛盾とは言わないまでもまるで雲を掴むようなお話です。

そう、例えば雲だ。

考えてみれば、雲とかって見てて飽きないなあって思うのです。

星とか海とか火とか、自然界のものって何故か見てて飽きないです。実際そんなドラマがある訳でもないのに、なんか面白い。僕だけかもしれないかもだけど、多分みんなそうだと思います。

生まれてから何度も何度も眺めているはずなのに、何度見ても見事な星空には感動してしまう。星の位置なんて変わらないのに、星がよく見える晴れた夜は何故か毎度毎度嬉しいものです。

月の形だって、バリエーションなんて限られてるのに、満月になったらやっぱり「おー」って思う。色がちょっと不穏だったりするとそわそわする。

海とかたき火ってなんでずっと見てられるの?

なんで?

「f分の1ゆらぎ」ってやつがポイントらしいです。

なんでも「f分の1ゆらぎ」と呼ばれる波長をもつものに対して人は心地よさを感じるらしく、自然界の多くのものは、この波長を持っているのだとか。

それがなんで心地いいの?って話になるとまだまだ謎な領域の話しらしいけれど、すごくもっともらしいお話ではあります。

もっとよく調べてみようと思ってウィキペディア見たけど正直なんの話ししてるんだか分かんね。

思い切って理解すると、自然界のたいていの物事って安定しているようでいつも微妙に揺らいでいるってことでしょう。

分かりやすく言えば、近くで見るとまるで予測不可能レベルのランダムな動きを見せるけど、遠目に見るとほぼ動いてないように見えたり、規則的に見えたりする。

たき火をするにしても、近くで見てると火がうねうね動いてたり急に伸びるように動いたり、何かが燃えて色が変わったりすると思うんだけど、ちょっと遠目に眺めたら「火が燃えてる」って現象からはみ出ることってないんですよね。

不規則だからと言って急に火が凍ったりそこから新しい命が芽生えたりするってことはまずない。

そういう意味では安心感と、次に何が起こるか分からないっていうスリルの両方を内包している。つまり恒常性と新鮮さを両立しているということになる。

そういうものなら、人間はなぜか飽かずに見ていられる。

飽きない町づくりにどう活かす

刺激には必ず慣れて、飽きます。

刺激には更なる刺激が必要で、欲求にはキリがありません。

欲求もマーケットもゆらぎを持っていると言われればそれまでだし、人間の営みも全て自然物であると言ってしまえば結局何をしても正解という話しになってしまいます。

「流行」は人間の営みを近くから見た場合のランダムで不確実性を持った浮き沈みだし、「恒常的な価値」というものは遠目に眺めた場合の人間の文明だったりする。

流行の歌は毎年変わるけれど、歌そのものの価値は視野を世界に広げても時代を遡っても変わらないというようなことです。

じゃあ、それがどういう風に飽きない町づくり、飽きない田舎作りに活かせるのか。

人は必ず飽きます。田舎にもサービスにも。もっともっとを要求されるはずです。もっと新しいものを、もっと刺激的なものを。「何もない」というのも刺激のひとつです。

そしてその新しいニーズに応える何かの開発に成功した田舎や地域が元気になる。

これでは競争社会のフィールドが地方に移ったというだけ、市場が変わっただけ。それは町づくりの一つの正解ではあるけれど、それだけでは視野が狭いでしょう。

僕は消費者を呼びたいのではなく、町を大事にしてくれる人に会いたいのだ。

何があるから価値があるではなく、町に田舎に愛着を持ち、そこで生活を営もうとする人に価値を感じるし、それこそが地域の価値であるべきだと思う。

だから完成物やサービスよりも、そういったものを生み出そうとする営みや過程に注目したいのです。

不確実で、ぶれていて、思考が燃焼し、試行が顕在化するような人間の営みは、それだけで価値があるものだと思う。

小さくても激しく燃えて微かに揺れる星のようです。

そういうことがブログなら出来るんじゃないかって思っています。
先にブログ上で仕事をでっちあげ、説得力を作り…なんて回りくどいことが、そのうち価値になると思っているのです。

一つ一つの小さな星がいくつもできて、それがいつか星座になれば、こんなに小さな町でもきっとそれなりの存在感を持つことになるでしょう。

そうすればきっと遠くからでも眺めて飽きない町になるでしょう。近くに寄れば不規則でランダムな姿を見せる、いつも新鮮な町になるでしょう。

町の中に何があるのかというのはもちろん大事です。

でも飽きない田舎ってきっと、何があるかの前に、どのように在るかに注目することが大事なんじゃないかなと思うのです。

こちらもよかったらどうぞ↓
『フルサトをつくる』を読んで①/僕のブログ はどんな人を見つけるのか

『フルサトをつくる』を読んで③/田舎ならではの教育の意義

『フルサトをつくる』を読んで④/フルサトに仕事を作ること

スポンサーリンク
スポンサードリンク