まちづくりはビジネスではなくアート

まちづくりはビジネスではなくアートの分野だと思う。

「まちおこし」と少し言葉を変えて言えば「経済的な活性化」って意味が見え隠れするからビジネスの色が濃くなるのかもしれないけれど、そういうビジネス的な営みも地域の景観の一つであって、地域で繰り広げられるストーリーや絵画の一部であると考えることができます。

つまり、地域を魅力的に彩る色々の一側面にビジネスがあるだけで、ビジネスの成功=地域の魅力ということにはならない。

地域の魅力という捉えどころのない芸術的な景観の中にビジネスがあっても良いけれど、地域はあくまでコミュニティなのだ、個性ある人間の集まりを内包する概念なのだと考えたとき、もし地域がビジネスに主導されてしまうのであれば、その集まりはたちまち消費者のためのサービス団体に成り下がる。競争に巻き込まれ、有利か不利かで語られるようになる。

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好ましさで形作られるものは多様性を生み出す

まちづくりはビジネスではなくアートの領域だと考えた方が良いと思います。

なぜかと言うと、ビジネスでは正しさが求められるから勝ち負けや流行り廃りで景観が画一化するけれど、アートであれば好ましさで地域が作られるので、比較的永続的でかつオリジナリティがあふれるようになると思うからです。

コミュニティが個性を持った生きた人間の集まりなのだとすれば、その概念の形成は正しさと好ましさのどちらに従うべきかは言うまでもありません。

そもそも故郷とか住む場所というものは正しさではなく好ましさで成り立っているものでしょう。

ビジネスは経済と言う単一の評価軸で正しさが規定されるものであり、行きつくところはみんな一緒、と言わないまでも限りなく画一的になり、成長すればするほど個性は失われていくものだと思います。

反対に好ましさに従うのであれば、ご存じのとおりそのバリエーションは多様ですから、好ましさで作られたものは自ずと個性的になり、多様性を生むことになる。

多様性を維持することは最強の生存戦略

多様性を維持することは自然界も採用している生存戦略のひとつなのではないでしょうか。

なぜなら、一つの強く有利な種で森が統一されるのであれば、一つの病気、一つの間違いで全滅してしまう恐れがあるからです。

あらゆる個性が共存する仕組みが採用されているからこそ、自然は簡単にはなくならない。

そう考えれば「正しさ」という限りなく遊びのないものに従う人の世の生存戦略は脆弱なのではないでしょうか。

だからこそ、自然物である僕ら人間の一人ひとりは、まるで警鐘するように個性を叫び、違いを訴える。

この理屈はただの思考上の遊びですが、統一されることや正しさを決められることに反抗心が我々の中に芽生えるのは至って普通のことなのではないでしょうか。

よって、そんな人の集まりである地域コミュニティというものも、存続の危機を感じるのであればなおさら、画一的な正しさに従うのではなく、個性を叫ばなければならないと僕は思います。

多くの個性を認め、多様性をデザインする視点

多様性の維持のために多くの個性が認められなければならない。

個性を認めるには、中立な、利害を考えない、創作者としての目が必要なのではないかということを

自分の意見を持たないという個性が面白くする社会/僕らが「普通」なのはなぜだろう。

という記事で書きました。

ここで言う、中立な視点を持った創作者というのは、ただ自分の意見を持たないということではなく、美的センスとか芸術的なセンスは持った人であるという注釈は必要だと思います。

つまり、コミュニティをデザインできる人間です。

ただなんの意見もなく、何を見ても何も思わないのであればいないのと同じですが、そんな人もいないでしょう。

言いたいのは「評価」ではなく「観察」し、適切な場所に適切な「個性を配置」できる人ということです。

ちなみに「コミュニティデザイン」という言葉が出てきてから久しいけれど、だんだんとこの言葉もビジネス上の手法の一つという認識になっているのではないでしょうか。

例えば、「人の動線を考えてコンビニの商品は陳列されている」とか「人の関心を引くフライヤーの作り方」というようなノウハウの類として。

しかしそうではなくて、あくまで絵を描くように、言葉を配置するように、それぞれの違いを知り、場にフィットさせることがデザインだと思いますし、地域において扱うのは絵の具でも文字でもなく人なのですから、いかにその場にそれぞれがフィットしているか(アイデンティティを満たせるかどうか)がデザインの主要な目的だと思います。

好ましさとは、いかにその個性が場にフィットしているか

良し悪しの評価をするのではなく、それぞれの個性を認めて地域コミュニティをデザインすると言えば、じゃあ良いヤツも悪いヤツもどんなヤツでも受け入れれば良いってことかよと思う方もいるかもしれません。

確かにそのように取られるかもしれませんが、そこのところがまちづくりはアートだと言い切る所以になります。

例えば、森の中には我々を喜ばせる植物もあるでしょうが、毒草もあります。

「評価」するとすれば毒草は取り除くべきですが、森はそんなことをしません。しかし森は美しいものだと思いますし、多くの人はこの意見に反論しないでしょうし、それどころかそういった危険を孕む部分に美を感じる方もいるでしょう。

自然というものは自然(ありのまま)だからこそ美しいのだと思います。それは一面的に見れば毒だったりするのかもしれませんが、森の中に毒草があるのなんて当たり前。当たり前ということはその場にフィットしているということなのではないでしょうか。

反対に、森の中に捨てられたゴミがあるとすごく嫌です。フィットしていないから。

この辺りが人間に与えられた美的センスなのだと思います。好ましさで考えれば、許容できるものとできないものの基準も変わってくるでしょう。

いるのが当たり前だからと言って無暗にコミュニティに害なす個性を受け入れろと言っているのではなく、その場に相応しくない個性が在るということは、そのコミュニティはそういう個性が根付く場だということです。

そこに適した花が咲く。個性は環境に依存する。

森、砂漠、高地、川辺、海、などなど、僕らを取り巻く自然にはそれぞれ美しい景色が広がっています。

そこには毒になるものも薬になるものもあるでしょうが、それは誰かの都合によって評価された一面であって、それぞれの場所で、そこに適した花が咲いているというだけのことです。

人間だって社会的な動物といえど自然物には違いないのですから、ただその場に相応しい形でごく当たり前に存在するだけ。本来であれば良いも悪いもありません。

とは言えそうとばかりは言ってられないというのも事実でしょう。

そういう場合に備えて法律や常識と言った文明は機能するのだと思うし、大切なのはバランスなのだと思うのですが、そういう話は別の機会に書こうと思います。

ここで主張したいのは、個性はある程度環境に依存するものだと思うから、地域という環境は慎重に「デザイン」されなければならないのだと思います。

この地域はどんな個性が根付き、咲きうる場所なのか。

つまりどんな個性がフィットする環境なのかを考える。

だからまちづくりはビジネスよりもアートな活動だと思う。

まちづくりはビジネスではなくアート(完)

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