10000分の1スケールのまちづくり

僕が住む町、朝日町にあるコミュニティスペース「旧佐藤医院」のサイトを作ったよという記事に始まり、

コミュニティスペースにある独特の公共性とか

コミュニティスペースの利用料金についての記事を続けて書きました。

公共性についてとか利用料金についてはそこそこ長いし言っちゃえば「あくまで旧佐藤医院はね(僕が思うにはね)」という感じの、しかもどちらかというと利用者ではなく運営者に向けた記事だから読んでくれてもくれなくても構わないんだけど、上記の記事に書いたことの中で、今回の記事のためざっくり知っておいてもらいたいことがあります。

それは、コミュニティスペースって「ゆるい繋がりのコミュニティを生み出す機能を持つ装置である」と僕が思ってること。

そして、「コミュニティが出来るということは即ち創造の土台ができる(クリエイティビティを発揮する)」と僕が思ってること。

そしてこれが今回の記事テーマになるんだけど、「コミュニティスペースは10000分の1スケールの町づくり実験装置」なのだということ。

だから「ゆるい繋がりを生むコミュニティスペース」「誰もが自由な時間を過ごしていただけるコミュニティスペース」といったありふれたものであっても、その存在の需要はまちづくりに悩む地域では大きいだろうなと思う、という記事を書こうと思います。

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ゆるい繋がりってなんだ

まず、昨今のコミュニティスペースの類がやたら「ゆるい繋がり」というコンセプトを掲げていることには感覚で頷いてもらえると思います。

つながりに限らず「ゆるい」って言葉は最近使われがち。「みんなでワイワイしながらゆるく活動してます!」みたいな文言を良く見かける気がするのですがどうでしょう。都会とかバリバリの組織に感じる忙しなさとか拘束感とか閉塞感への当てつけかもしれません。

じゃあ「ゆるい繋がり」って具体的にどういうものなのかと言うと、僕が思うにだけど、「それぞれが独立しているけれど、ときに、目的に応じて協力関係にもなれるコミュニティ」のことだと思います。

個人化の時代とかって言われるように、人間は歯車の一部ではなく、個々それぞれが集まって全体になっているんだという感覚が強いのではないでしょうか。

「全体を維持すること」にあまり興味が無くなってきてるのかも。僕の個人的な感覚で言えばそんな感じです。コミュニティであることに執着するばっかりでコミュニティの機能(相互扶助や協力関係、問題解決)がないがしろになるなら、「みんな行くんだから行かん訳にいかんだろう」みたいな義務の参加とかそういうのに疲れるだけで、時間の無駄じゃねえかと。

思い切ってスケールを大きくすれば、最悪社会という概念が明日突然無くなっても私は私なんだとみんなが感覚的に気付き始めたということかも。

不特定多数の誰かさんがつくってるのであろう「社会」が信用できなくなってきていることの表れかもしれないけれど、くどくどこんな話してたらキリがないから次に行きます。

ゆるく繋がるコミュニティは現代の理想形

「ゆるく繋がるコミュニティ」っていうのは、だから、きっと現代における理想形なんだと思います。

それぞれが個を尊重しながら、共通の問題解決のためになら協力関係になることもできる。

これって町自体がそうなれば一番ベストですよね。それぞれが個人の生活を営みながら、ときに協力関係になって、コミュニティ(町)の問題を解決する。

だから「ゆるく繋がるコミュニティ」を生み出す装置である「コミュニティスペース」は、理想の町づくり体制を作るための極小モデルになるのです。

なぜゆるく繋がれるのかについては

コミュニティスペースのジレンマ/コミュニティスペースの公共性とは

が微妙に参考になるかも。でもこれ長いしんどい記事なので「ゆるく繋がる仕組み」について注目した記事はまた別に書きます。

ここでは、「コミュニティスペースはとにかくゆるく繋がるコミュニティが作られるんだ!」と思い込んでくださいお願いします。

それより、そもそもなんで「コミュニティ」ができたからって問題解決につながるの?クリエイティビティの刺激になるの?という疑問を持つ方もいるかもしれません。

なぜコミュニティが問題解決能力を持つのか

コミュニティが問題解決のための集まりになる理由は、徹頭徹尾コミュニケーション自体が問題解決のために行われるものであるからです。

僕らが日常で行うコミュニケーションには、必ずと言って良いほど解決すべき問題が含まれています。

相手のことが分からないので理解する。

自分のことを分かってほしいので伝達する。

この「分からない」って辺りが既に問題であって、謎であって、解決すべきこと。

元気?って聞くのは、元気かどうか聞くためです。元気って答えるのは、元気だと言うことを伝えるためです。

いやいやもっと複雑で、そういう挨拶の類ってのは本題に入る前の手続きであって、心の準備的な時間でしかないとかいうこともあるかもだけど、いずれにせよ、コミュニケーションは問題解決のための手段であることに違いはありません。

問題と言うと明らかに大げさだし、屁理屈めいてるから納得できないかもしれないけれど、極端に考えてみて欲しいのです。

僕らが全員以心伝心だったら、誰も会話する必要なく、顔を合わせる必要もなく、こうして文字をコツコツ書く必要もありません。全てのコミュニケーションツールが不要です。

あらゆることが分からないから、僕らはわざわざ面倒な手続きを踏んで会話したり、時間をかけて文字に残したりする。

また、以心伝心でないということはどういうことかと言うと、僕たちはみんな「違う」ということでもあります。以心伝心でなくても自分の考えてることがみんなの考えていることであるなら、同じくコミュニケーションは不要。

「違う」という問題を解決するために、僕らはコミュニケーションを取ります。

コミュニティが創造に至るのはどうしてか

僕らは理解と伝達のためにコミュニケーションを取ります。

その問題は両者に共通のものであるとは限らず、暇つぶしとか悩みの解決とか個人的なものも多く、色々なバリエーションはあるけれど、全く無意味にコミュニケーションを取るケースは意外に少ないんじゃないかなと思う。

さてじゃあなんでそれがクリエイティビティに繋がるかと言うと、第一に、僕らどれだけ言葉を尽くしても、会話を重ねても、理解し合うのは難しいし、伝達しきるのは難しいからです。

できる限りあらゆる工夫を凝らして、僕らはコミュニケーションを取ります。表情を使ったり、体を使ったり、声色を変えたり、本当にあらゆることをする。

それでも伝わらないことがあったらどうする。すごく複雑で、難解で、個人的なことを知ってもらいたいと思ったらどうする。

僕たちは多分歌を歌ったり、詩を書いたり、絵を描いたりするのです。

だから創造は高度なコミュニケーションで、コミュニティは熟成するに従って必ずと言って良いほど問題が高度になり(話すことなくなる、やることなくなる、物足りなくなるという大問題が発生するから)、創造に至るようになる。

何を問題にするか?を考える時点でクリエイトだし、その高度な問題を解決する方法もクリエイト。

そしてこの段階に至るのは、小さなコミュニティであればあるほど早いと僕は思う。

(夫婦が子ども作るのってこのせいなんじゃないの?って言ったらなんか下衆いっすかね。)

体面(コミュニティ)を保つためではなく、内面(自分たち)を満足させるための創造

コミュニティスペースが本当に「ゆるい繋がりを生む」のだとしたら、その成果物は問題解決に適した、理想的なコミュニティです。

そのコミュニティは高度なクリエイティビティを発揮しますが、それって何のためかと言うと、「コミュニティを維持するため」ではなく「あくまで自分たちを満足させるため」だということが伝われば良いなと思います。

ここが本当に大事。

だって僕ら「全体(コミュニティ)を維持すること」にもう興味ないじゃないですかあんまり。

僕らはあくまで個人であって、必要に応じて協力関係にもなれるコミュニティが理想なんですよね(少なくともこの記事内ではそういうことになってる)。

そういう理想のコミュニティが作れるのが、例えばコミュニティスペースみたいな入れ物だという話です。

だからコミュニティスペース自体はただの道具、装置、枠に過ぎません。理想的なコミュニティを作るための装置です。

理想的でないコミュニティは何かというと、コミュニティを維持するために個が損なわれるようなコミュニティです。

例えば、「○○町の未来を考える会」とかが○○町について会議で考えるのは、「○○町の未来を考える会」っぽいことをするためですよね?

「○○町の未来を考える」ために集まった訳じゃなく、「○○町の未来を考える会」を結成するために、つまり「○○町の未来を考える会」を維持するために、○○町の未来を考えてるのではないですか?

全体(コミュニティ)の体裁を守るために、個人が「めんどくさいけど行かなきゃなー」とか、「○○さんに誘われたら行かん訳にいかん」とかって言って、それぞれがコミュニティの一員っぽく振る舞ってる。

そして全体(コミュニティ)の体裁を守るためにやることは、自分を満足させるためではなく、全体を保つためにやることだから、それっぽい問題を掲げ、それっぽい答えを出し、それっぽいことをやって、「○○町の未来を考える会」らしいことをすれば満足する。

架空の話ですけどありがちだと思います。

コミュニティスペースはまちづくりの模型になる

理想的なコミュニティがクリエイティビティを発揮するのは、自分たち一人ひとりが満足するためです。

大人になるに従って、僕らはこのことを忘れます。

昔は友達といれば退屈することはなかった。新しい話題、新しい遊び、次々にやることを生み出し、一緒にいることが楽しかった。

だんだん、交友関係を維持するためだけに毎年誕生日にメッセージ送ったり、アップした写真に「いいね!」押したり、たまの飲み会で昔に戻ったフリをするだけで満足するようになる。

お友達同士という人間関係(コミュニティ)を維持する定義が変わるのです。

共に何かをするのが楽しいから友達なのではなく、友達だからそれっぽいことをするようになる。

こんなにしつこく例を出さなくても分かるかもしれないけれど、ここは重要なポイントです。

体面を保つために行うことは空虚になる。やってるだけになる。

反対に内側の充実のために色々と考えると、それは外側に表れる。

僕らは内を向くべきだ。

理想的なコミュニティは体面を保つためではなく、あくまで自分たちが必要だと思うこと、足りないと感じること、伝えたいこと、理解したいことのための工夫をします。自然に、とても自然に。子どものように。

もしコミュニティスペースが、理想的なコミュニティを形成する装置なのだとしたら、きっとそのコミュニティスペース内にはあらゆる創造の産物が溢れることになる。

町も同じです。

町が理想的なコミュニティを作るちょっと大振りなコミュニティスペースだと考えてみれば、その中にいるそれぞれは自然に自分たちにとって必要なこと、自分たちにとって足りないものを考え、解決する。きっとそれはとても刺激的な問題で、解決の方法は創造力に満ちている。

そんな町が衰退するはずがないと僕は思う。

もしかしたら町のスケールで理想のコミュニティが出来上がる想像はしにくいかもしれないけれど、だからこそ10000分の1スケールの理想のコミュニティを作る、コミュニティスペースは、まちづくりそのものの模型になるのです。

まちづくりに悩む全ての地域に必要な装置だと思いませんか。

10000分の1スケールのまちづくり(完)

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