って記事を書いたばっかりなんだけど、僕は何になりたいんだろう、どんな人になりたいんだろうと考えてるうちに、「編集者」になりたいんじゃないかと思った瞬間があります。
なりたい人象に一番近く分かりやすいのが「編集者」なのですが、どうだろう、僕が考えるなりたい人って果たして本当に「編集者」なんだろうか?やっぱりなんか違うような…。
ということで僕がなりたいのは「編集者」なのか?をテーマに、今日は記事を書いていきたいと思います。
創作意欲は自分のもの
編集と言えば書籍とか雑誌を作る人ですよね。じゃあ創作する人のお手伝いをする仕事ということだ。
これはかなり僕の理想に近い職業です。
でも、創作活動をしている人が創作をする動機は何なのかというと、もちろん職業作家になりたいとか有名になりたい(社会に認められたい)という気持ちを持っている人もいると思うけれど、何より純粋に作りたい、産み出したいという気持ちが強いものなのではないでしょうか。
創作意欲はあくまで自分のものであって社会に頭と手を消費されるのではなく、あくまで自分がこういうものを作りたいと思っているから、その理想を完璧に再現するべく頭と手を動かすのです。
ノートの一番最初に文字を書き込んだとき、スケッチブックの1ページ目に絵を描き始めたとき、もしくは五線紙に音符を並べ始めたとき、頭の中にあるのは社会の需要ではなく、自分の頭の中から溢れそうな何かを形にしたいという欲求でしょう。
だから人は頼まれもしないのにコツコツとコソコソと何かを作るのだと僕は思います。
僕はこの孤独な作業を助け応援できる人になりたいんだけど、これって編集者でしょうか。
理想と現実のギャップはいつもある
創作に限らず、頭の中にある理想を再現しようとするというものは日ごろ誰もが行っていることだと思います。
料理するときとか、こんなブログみたいなものを書くときとか、誰かと話すときもそうかもしれません。
いつも頭の中に「理想像」というものはあって、それを目指して僕らは色々とやってます。
だけど理想通りにことが進むことってほとんどありませんよね。
味付けはいつもちょっと足りないし、文章はうまく伝わらない、流暢な会話だって日本語なのにできた試しがない。
理想と現実はいつも隔たっていて、そのギャップを埋めるのは並大抵のことではない。
芸術の領域のことであればなおさら、その隔たりは果てが見えないほど広がっている。
伝えたいことって好き嫌いが主だろう
積極的に何か伝えたいというモノがあるとしたらもっと悲惨です。話したことの20%も伝わらないということは誰でも経験してるはず。
僕の場合、何か伝えたいことや再現して見せたい脳内の何かがあれば専ら文字に頼り、文章を使おうとしますが、書けば書くほど自分の頭の中を誰かに伝えるなんて「むりむり」って思ってしまいます。
いつもどこか言い足りない、いつもどこかに語弊があって、いつもどこか言いすぎてしまう。
そもそも「伝えたいこと」ってそんなに純度の高いものじゃないんですよね。
言ってしまえば少しの「不満」を言いたいだけだったり、「嫌い」って言いたいだけだったりする。反対にこれが「好き」なんだ!って言いたいだけだったりする。けど、その好ましさを伝えるのが難しい。
僕の場合、この記事では「創作や表現が社会に受け入れられなければ無価値」になりがちなことに「不満」だと言いたいのです。
創作ってもっと自分のためにするものでしょうって。
僕は聞く耳を持ちたい
僕がなりたいのは、単純に誰かが表現したいと思う好き嫌いを、できるだけ100%表現させてあげられるような助言者です。
社会的な価値とかマーケットに誤魔化されず、頭の中にあるものをすっかりそのままの形で再現するお手伝い。
もっともっと端的に言うと、僕は聞く耳を持ちたい。
自分を消して、外側にある価値基準のことも忘れて、目の前にいる人の理想というものを理解したい。そういう権利が欲しくて、そういう立ち位置になりたい。
僕は正解を決めず、要するにこういうことでしょとかって言って相手の思考を自分の枠に収めることもなく、純粋に他の誰かの理想を僕も同じ気持ちで見てみたい。
どうにかして理解させて欲しいし、どうにかして理解したい。これってやっぱり編集者って感じではないよな。
そういう、伝えたり理解したりすることに贅沢な時間を使える空間や、誰かの100%の創作ができること自体が価値になっていく仕組みを作る人になりたい。
でも、なんでもかんでもって訳にはいかないんだよな。
だからまずは僕自信が、強烈なカラーとか特色を持った媒体になる必要があると思う。
僕がどんな人の「好き」を理解できそうな人間なのかを知ってもらうために、まず僕が表現し続けなきゃいけない。
聞く耳を持った、誰かの創作をよく助ける編集者?になりたい。(完)