偏愛マップ書いて気付いたこと/好きなことをして生きていくは可能か?

ツイッタ―見てて偏愛マップなるものの存在を知って、おおこれは自己紹介とか書くよりよっぽど良いんじゃないかと思ってさっそく書いてみました。

偏愛マップ

書いてるうちに気付いた「好きなものに関する発見」を、書くまでもないことかもしれないけど書いておきます。

当たり前だろと思うことばかりかもしれないけど、あえて穿って考えてみましょう。

そして最終的には「好きなことをして生きていくのは可能か?」というポイントを考えていきたいと思います。

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偏愛マップは本当に偏ってる。偏愛マップの書き方も自分で決めよう。

偏愛マップなるものを知ってからろくに調べもせずに書き始めたのですが、そもそもこれってフォーマットとかってあるの?って途中で思って、「偏愛マップ 書き方」って検索してみました。多分これを書かんとする人はほとんどそうすると思う。

労力を省いて差し上げたいので結論を言うと、偏愛マップには特に書き方に決まりがある訳ではないらしく、むしろ偏愛マップをどういう風に書くか?という時点でその人の個性が出て面白いみたいな記述もありました。

手書きで絵もつけて書く人、マインドマップみたいに書く人、きっちり几帳面に書く人、カラフルに書く人、色々いる。好きなように書け、偏愛マップなんだから。ってことでしょう。

自分の好きなものを並べる大事なマップですから、そのマップ自体に「好み」が表れまくっているって良いですよね(僕に画力とかあったらもっと凝ったの書くと思うから能力的な要素もあるけど)。

更に、書いてて気づいたけど、そもそもどのカテゴリーの好きなものを書くかという点にも偏りが出ます。偏愛マップに書くべき一般的な項目も検索する人いると思うんだけど、それも僕は気にしないで自分で選んで良いと思う。

「好きな食べ物」とか「好きな場所」とか「好きな芸能人」とかはない訳でもないけど僕の頭の中では当然書かないものだったようで、今の今まで思いつかなかったくらい。でもこれらを一番最初に書く人もいるでしょう。

あ、「料理」と「静かで狭い場所(トイレ)」、「映画館」は僕も書いたな。これは確か「その他」でくくりました。

好きなものを集めると、自分が根本的に大事にしてるものが分かる

料理とかトイレとか映画館が好きって言うのも、料理が頭使わなくて良い手作業だからストレス解消になるし、煮物とかしてる間に本読むのが好きだからだし、トイレも籠って本読むと集中できるから好きなんだし、映画館も暗くて落ち着く雰囲気と映画が好きだからってことで、やっぱり根本には文芸の好きさがあるんですよね。

で、これが混ざったような「劇場、芝居小屋」の空間も好きなんだけど、僕が生で足を運んだ劇場って基本的に頭の中にあるのは「ラーメンズ」の舞台です。

コントなんだけど短編小説を読んでるようなお話の構成とか、シンプルな舞台装置、謎と笑い。計算された設定でダイナミックに頭が揺さぶられるのが快感で、映画にも小説にもアニメにもゲームにも求めるものは同じ。

作りこんだものって、現実ではなかなかない感動が味わえますよね。

「あ、根本で繋がってるんだな」って気付くために好きを可視化する偏愛マップは便利だし、今みたいに根本が分かれば自分が人生の中で大事にしてるもの、常に求めているものの輪郭が見えてくる。

さらに分析的に自分の偏愛マップを見てみると、僕は基本的に一人で完結する物事が好きなんだと分かります。

このブログではよくコミュニケーションが大事とか、なんとか理解しよう伝えようとする文化的な部分が大事と言ってるしこんなこと言うのも何なんだけど、僕は一人の方が全然好き。

中には本読むくらいなら人と会うって人もいると思うんだけど、僕は完全に、人と会うくらいなら一冊本を読む方が良い派です。

え、じゃあ今まで話してたコミュニケーション論的なこととか理解と伝達の大切さみたいな話題って何なん!?と思われるかもしれないけど、この辺りのことは長くなりそうなんで別記事に書きます。

簡単に言うと、一人は好きなんだけど孤独は嫌いだよって話。多分これはけっこう多くの人が分かってくれると思う。

一人と独りの違い/「一人」は良いけど「孤独」は嫌

僕は物語を愛しているし物語に浸れる空間を愛している

偏愛マップを書いてすごくはっきりしたのがこのことです。

僕は物語を愛しているし、物語に浸れる空間を愛している。

小説とかアニメとか映画とかに僕以上に親しんでいる人はすごくたくさんいると思うけど、好きなことに違いはありません。偏愛と言うより偏執していると言っても過言ではない。

そんな僕が、このブログを通して何をしようとしているかと言うと、やっぱり物語を愛することなんだろうな、物語に浸ることなんだろうなと思う。

もう、好きが高じて作家になりたい。

だけど僕が目指しているのは、現実の中に虚構を拵えるんじゃなくて、虚構を現実にすることなのです。その舞台をこの町にしたいとこっそり考えている。町が一丸となってまちづくりをするってより、やっぱり僕一人の悪巧みだと思って欲しいし僕はそっちの方が熱くなる。

と言っても夢の国みたいなのを作りたい訳でもないです。

新しい小説を開く瞬間の、劇場に足を運んだときの、映画館で上映を待ってるときの、夜中にRPGを始めるときの、独特の高揚感が溢れる町にしたい。

FF7と姉の思い出

いつかの記事でも書いた、「日常の中の非日常ではなく、非日常の中の日常」(これもラーメンズのコントにあるセリフで作品観)を作ることに憧れている。

そして僕と似たような嗜好を持っている人に、ひきこもりにおいでって言いたいのです。劇場感とか映画館的な雰囲気、もしくはRPGの最初の村みたいな感じを町が放ってたら素晴らしいと思いませんか。

僕の脳みそが興奮し続ける現実が、僕の家の玄関を開け、少し歩いたところにあるというワクワク感。そういうものを作り出せたら最高だし、共有できたら良い。

そう、一人ぼっち(小グループ)が集まってなんとなく賑やかって感じが良いのです。消極的だけど深度の深いコミュニケーションを理想とするのです。

そういうコミュニケーションをするには好きなものを集めた偏愛マップって便利だと思いませんか。

例えば飲み会的な場で適当な上辺の話しを1時間するより、目の前に座ってる人が電車で何読んでるかを覗きみたときの方がその人の本当こと知れた気になるのですよ僕は。

好きなことをして生きていくことは可能か?

逆に聞く形になっちゃうけど、ここまで書いたことを実現することは可能だと思いますか?

僕は何となくだけど、できる気がする。

というか、しなきゃならないような気さえする。

これからどんどん仕事も生き方も何もかも、自分の「好き」っていう感情が主体になって行くはずです。

今はみんながちょっとずつ嫌なこととか我慢を分け合って、「みんな平等」になろうとするけど、そういう風に嫌なこととか我慢を分け合ってまで守らないとならない平等ってなんだろう。

偏愛マップ書いて思ったけど、こんなに偏ってる僕らが分け合える平等なんてこの世に果たしてあるでしょうか。

僕らが平等にしたいのは幸福ではなく、不幸の方だって聞いたことがあります。

誰も人より損したくないし、誰も人より不幸になりたくない。

でもそういう相対的な意識こそが不幸を作っています。

水が国からの配給制だとして、俺の水少なくない?って思っても、隣の人と同じ量なら納得できるんです。それが50人も100人もいたら、あこれが普通なのねって納得できちゃう。

水の量は関係なく、「みんなと同じかどうか」「普通かどうか」が問題になります。

でもこの選択肢に恵まれた時代にいる頭がすごく偏った僕らにとって、あらゆる選択が迫られる僕らの人生において、「みんなと同じ」ことに果たしてどれほどの意味があるでしょうか。

みんなと違う個人的なこと、つまり好きなことってなんとなく余剰分でやれ、余った時間でやれって感じがあると思うけど、これってなんでなんでしょう。

僕たちにはこんなにも好きなものがあって、好きな場所、好きな人がいる。何はなくてもそれがあれば幸せなんだって言えるものがたくさんある。それは探せば探しただけあるし、どんどん増えていく。

僕らは「みんなと同じ不幸」を分けるのではなく、「自分だけの幸せ」を求める時代にいるのです。

だからこそ、好きなことをして生きていくことは可能かどうかというよりも、僕らはこの愛すべき偏りを頼りに生きていかなければならないと思う。

偏愛マップ書いて気付いたこと/好きなことをして生きていくは可能か?(完

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