「価値観の多様化」とか「個人化の時代」とか知ったようなこと言ってるけどさ…。

「価値観の多様化」がどうとか、「個人化の時代」がどうとかって知った風なことを当たり前のように、何かにつけて話題にしてきたのだけど、考えてみればこんなに漠然としたワードに共通認識があると思い込んでいた僕は実に甘ったれだ。

そこで今回は、「価値観の多様化」とか「個人化の時代」という言葉に僕はどのような認識、イメージを持っているのかということについて書きたいと思います。

「価値観の多様化」「個人化の時代」。

分かる分かる。

価値観の多様化ね、ほんと人それぞれって感じだよね、差別とか偏見も少なくはなってきてて、一人一人の価値観が尊重される時代だよね。

おひとり様も増えてるって言うしね、個人化の時代だよねほんと。

という話、なのかもしれないけど、これではなんだか小手先のお話のような気がしませんか。

「価値観」「時代」と言うからには、もっとスケールの大きな話だと思います。

今日明日のライフスタイルではなく、人生に及ぶ話しなのです。

今回は文量を気にせず書こうと思いますので、なかなか長いものになる予定です。(結局9500字くらいになりました…。いつもの3倍くらいありますすいません)

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人生は航海のようなもの、は本当か

人生はしばしば航海に例えられます。

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浮き沈みや波があり、晴れの日もあれば嵐の日もある、決して平坦ではない苛酷で長い旅です。

物事が順調に進んだりすると「順風満帆」と言う言葉を使ったりします。

帆に風をいっぱいに受けて、ぐんぐんと前進する様を表す言葉です。

無意識に近い感覚ではあるけれど、やっぱり人生は航海のようなものなのでしょう。

でもどうだろう、僕らは本当に航海なんてするつもりがあるのでしょうか。

なぜこんなことを言うのかって、僕たちは荒波にもまれたくないからこそ、雨風にさらされたくないからこそ、「動かずに足場を固める」という選択をしてきたのではないかなと思うのです。

それが一昔前の「価値観」だと僕は思います。

一昔前は、できるだけ危険にさらされないよう、頑丈な土台を確保し、そこで大人しくしていることがベストでした。

少々波が荒れても、足場さえしっかりしておけば濡れる心配も溺れる心配もありません。

人生という航海の旅を平和に切り抜けることができます。 土台とは例えば、「定職」です。

「定職」という土台に乗っている図↓

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頑丈であればあるほど荒波に揉まれる心配がなくなりますから、できるだけ大きくてぶ厚い土台の上にいるのが安心でした。

人生におけるチャレンジとは、その安定した土台の上で行うことを推奨されたのです。

大企業や良い会社に入るのが安定で人生の成功。

だからこそ、そういうぶ厚い土台目指して皆頑張った。

良い大学出るのが目標になって、良い企業に入ったら勝ち組って言われた。

「大企業の正社員」という土台の上には、例えば「結婚」という土台を積み上げたり、「マイホーム」という土台を積み上げることができて、どんどん土台を高く、頑丈にしていきました。

青は「住まい」のイメージ↓

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土台が高くなればなる程、波の影響は受けずに済みます。

多少荒れていてもびくともしません。

海に落ちて溺れることなんてありません。

これだけの土台を積みあげ足場を固めることが、一昔前までの「一人前」、「自立」の定義でした。

そして「勝ち組」の条件でした。

「結婚」も積み上げ安定した土台の上で悠々自適の図↓

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積み上げてきた土台の脆弱さ

しかし時代が流れ、どうやらそうじゃないぞ、ということになんとなく皆が気付き始めました。

まず一番の基本となる「会社」や「定職」という土台がそれほど頑丈でないということに気付きます。

見かけ倒しで、そんな何人も乗れるような代物では決してなく、今にも溶けそうな南極の氷のよう。

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僕が大学生の頃は就職氷河期と言うわれていましたが、今はどうなんでしょう。わかりませんがとにかく、氷河期というよりは就職温暖化とも言うべき足場の消失。

陸地で押し合いへし合いをするペンギンのように自分の足場を確保することでいっぱいいっぱいで、新たに足場を確保しようと目論む人にはなんとも分が悪い競争です。

そんな状況で急ごしらえされた「派遣社員」「契約社員」という土台もありますが、「正社員」に比べたらやはり頼りない仮設の足場です。

その上、そんな不安体な会社の上に積み上げなければならない「結婚」や「住まい」。

「住まい」は一番下の土台に合わせてサイズや負担を調整することが可能ですが、「結婚」の負担は変わるものではない上、子供が増えれば増えるほどその重さは増していく。

だけど、就職、結婚、住まいという風に土台を積み上げていくことが人生の成功であり、社会人としての理想像であり、当然そうするものだという風潮が今まではあったし、その風潮は根強いものです。

大丈夫大丈夫、このまま行けばなんとか崩壊は免れるというポイントを見つけてじっと動かずにいれば、不安体ながらも足場を維持することはできる。

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そのポイントさえ見つけることができれば、一昔前の理想像をなぞることは可能なのです。

おや、安定って難しいぞ?なんだか窮屈だぞ?と思いながらも、足場を固めるしか荒波に立ち向かう方法がなかったりして。

国は人に動いて欲しくない

だけど更に時代が流れ、そんな様子を見て疑問を抱き、慎重になる人が増えてきました。

まだいわゆる「社会」に出る前の、若い人達です。

人生ってあんなに不自由で身動きが取れないものなの? あの土台の下は、あの波は、そんなに恐ろしいものなの?

まだ土台を積み上げていない人々から見れば、「あんなに高いところにいるから落ちるのが怖いんだ。自分で積み上げたものがまるで崖のようになって、落ちたときに一たまりもないんだ」と悟るようになる。

そもそも、ああする以外に人生の海を航海する方法ってないものなのだろうか。

大学を出たら就職して、良い人見つけて結婚して、子供作ってっていう土台作りをするしか道はないのか。

不安体でも小さくても「定職」「住まい」「結婚」みたいな土台ってなければならないものなのか。

そういった土台を積み上げる意味ってなんなのか。

ああいう土台がないと生きられないって思いこまされてるだけなんじゃないのか。

誰に?

国に。

もしくは習慣に。

もしくは空気に。

だって、土台を積み上げたからって頑丈になるっておかしいじゃないか。

高く高く積み上げても、バランスが悪くなるだけで頑丈になんてならないだろう。

足場が崩れる恐怖が増すだけじゃないか。

だけどああいったものを積み上げることが「一人前の証」だし、それは「信頼」や「信用」に繋がるし、「社会」では必要なことなのだ!

「社会」ってどこ? この大きな海の一体どこに「社会」ってものがあるの?

立派な社会の一員にならなければ国に守ってもらえないんだ。

しっかり税金を納めて国のために働くことが国民の義務なんだよ。

じゃあじゃあ、国ってどこなんだ。

人生は航海だと言うのであれば、国は一体なに?国民全てを乗せる船?地平線?それとも実体のないルールの塊? 沖に浮かんでるブイ?ここからは遊泳禁止ですよ的な役割しかないんじゃないの?

土台を積み上げて、だんだん身動きが取れなくなることが一人前の証で社会の一員となるために必要な要件だと言うのは、つまるところ安定したお金を国に収めることを約束させる仕組みでしょう。

お金を固定するための工夫でしょう。

人を固定するメリットなんてそこにしかないと思う。

確かに国というものが必要なのだとしたらこの工夫は必要なことだと思います。

たぶんみんながみんなどこで何をしているのか分からなくて、好き勝手に生きてたら国なんてものは維持できないのでしょう。

払うお金に見合った安心が得られるのか

安定して収める、例えば税金のようなお金は国を維持するためのものであり、国民一人一人を幸福にするためのものであり、人々に安心を与えるためのものであるはずなのですが、残念ながら人の作ったシステムですからアラが見えてしまいます。

税金の無駄使いなんていつもある話しなんだろうし、政治とカネの問題なんてニュースもあったし、安心のシステムである生活保護受給者やその制度自体にバッシングが飛び交います。

医療費かかりすぎ問題、年金制度の限界などの問題にも波及というか関わりが生まれるでしょう。

それでもなお、一人一人身動きを取らず、足場は不安体ながらも国を信じ、「社会」の一員であろうとする人々に国がどれだけのレスポンスをしてくれるのか。

あらさがしばっかりのニュースを見ていると裏切られることの方が多いのではないかなんて認識になってもおかしくはありません。

国を形作り率いている人たちもまた人間で国民ですから、自分の土台、自分の足場を堅牢にしたいという気持ちも当然ありますし、その土台を大切にしようとする気持ちだってある。

だから天下り先の企業は潰れないとか、自分達の年収を下げようとはしないってのも当たり前と言えば当たり前で、みんな同じ状況に置かれたら自分の足場が一番大事なのは変わらない。

そんなことも分かる分かる。

報道が当てにならないことも、みんなが自分のことしか考えていないことも、国なんて言うほどの実体がないことも。そのルールの上で生きるしかないことも。

ゆとり世代を超えてさとり世代と呼ばれる世代の若者たちは砂浜で寝そべりながらそんな世の中の様子を見て、土台を積み上げることに魅力や意味を感じなくなったりする。

人生ってそんなに怖いものなのかな。

あんなに必死になって足場を固めないと生きていけないような場所なのかな。

そういう設定になってるだけなんじゃ?

 僕らが受けてた教育ってどんなもの?

人生においては、もし人生が航海だと言うのであれば、大きな波が来ても安心な足場を固めるより自分が海で泳ぐ力を付ける方が大事なんじゃないの?

少々の荒波でも浮き輪一つあったら溺れないって思えるような自信を付ける方が大事なんじゃないの?

学校ってそうやって自分の力で人生を航海できるように色々なことを学ぶ場所なんじゃないの?

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でもどうやらそれも違う。

実際、僕たちは荒波に立ち向かう力をほとんど持たないまま大人になります。

人生は航海に例えられることはあるものの、自分の力で天候を読み、自分の船を作り、自分が操縦桿を握り、行きたい場所に向かって前進するというような教育は受けていません。

「夢」や「理想」ではなく「将来なりたい職業(土台)」を聞かれ、そこに立つためにはどんなプロセスが必要なのか、どんな学校を出て、どんな試験を受けて、どんな研修を受ける必要があるのかという「手続き」をこなす学習に終始している。

土台の設計をせず行きたい航路を指させばそれは「夢」と呼ばれ、子供のうちならまだしも、大人になるにつれて「現実」を見なければならないと言われるようになる。

夢を追うのは勝手だけど、それじゃとても人生は成り立たないよ。

荒波に飲まれておしまいだよと言う。

行きたいところに行けるのは、夢をかなえられるのはほんの一握りの人間なんだと安定した土台の上から知った風なことを言う。

かつて豪華客船のようだった安定が…

それでも自分で自分の船を操縦するような人生を歩む人はたくさんいるもの。

それこそどの時代にもいたでしょう。

土台を積み重ねる人から見ればその人生はとても不安体で危なっかしいものに見えます。

一波ごとに翻弄されもがいている人を高いところから見ればそれはそれは不安体で不自由で危険な道程に見えるでしょう。

どこに向かって、何を考えて生きているのかもよく分からないでしょう。

だけど下から見れば、今にも崩れそうで、予測を越えた波が来れば一巻の終わりのもろい足場の上にいる人達が危なっかしく見えたりする。

波の影響は受けないにしたって、毎日同じところから同じ景色見てて面白いの?っていう疑問も生まれる。

自分で決めた道を、自分の力で進むのだという人が乗っているものが小型のヨットだとすれば、積み上げた土台に乗って海に浮かぶことはまるで豪華客船に乗っているような感覚だったのだと思います。

そこに乗ってさえいれば波や天候は気にしなくて良くて、安定した人生を楽しむことができた。

一度乗ってしまえばこっちのもの。

後は雨が降ろうが嵐が来ようが、客室に被害が及ぶことはない。

だけどだんだん、今までの価値観で積み上げたものは船とは名ばかりの代物に成り下がってしまいました。

乗船には今まで通りのお金がかかるものの、それに見合った安定が得られない。

ゴーストシップと言えば言い過ぎかもしれないけれど、豪華客船には程遠い。

ああ、ダメかもしれない沈むかもしれないと思っても、沖で止まっているから降りることもままならない。大丈夫保障がある。

いや救命ボートは人数分なんてありません。

あっても空気があんま入ってません。ちなみに食糧も積んでません。 オールは? ありません。 え、じゃあどうすんの。 さあ、何日かは沈まないと思います。救命ボートってそういうもんですよ。

これは極端な話ではあります。 国なんて信用できないとか、日本はお先真っ暗だなんて話ではありませんし、大学出て大企業入るなんて馬鹿でしょとか言いたい訳でもありません。

もちろんこれからは起業の時代だとか、面接を受けるなら中小企業が熱い的な話しでもない。

これこそ折に触れて書いていることではあるけれど、人生は「選べること」が大事だろうと言う話しなのです。

こう生きれば幸せだとかいう定義はないし、正解の人生ルートなんて人それぞれ違います。

だから他人を捕まえてこう生きるべきなんて話はとてもできない。

ただ、人生は航海だと言うのであれば、やはり波の影響を避けきることはできないのだと思うのです。

結局どこにいたって大自然を相手にしており、予測のできない未来を相手にしている以上、何ものにも翻弄されないことなんてことはありません。

でもその代わり、360度視界が開けている海の上にいるのであれば、行き止まりや袋小路なんてものはないはずなのです。

常に進んでいる方向が前であり、仮に不本意な景色に出会ってしまったとしても、必ず「それ以外」のルートがある。

もし行き止まりがあるのだとしたら、きっとそれは人為的に設けられた何かがあるからでしょう。

どのルートも未知で、どのルートも正解で、どのルートも間違ってるで良いじゃないですか。

これが正規ルートだ!これが絶対安全安心な道だ!なんて誰が決められるというのでしょうか。

どんな波にも翻弄されたくないのであれば、要塞みたいな頑丈な箱作って海底にでも沈めてそこに引きこもるしかないじゃないですか。

それでも大王イカに襲われたりするかもだし。

人生は航海だ、というのであれば、それぞれが波や変わる景色に恐れたり戦いたり感動したりしながらそれぞれの航海を繰り広げ、それぞれのエンディングを迎えるのでしょう。

それぞれの人生が絶対唯一であり、一人一人の人生が予測不可能であって、みんな一人ぼっちで、だからこそ他人は興味深いのだと僕は思う。

孤独な人生。人生は孤独

そんな人生は孤独でしょうか。

人生はもともと孤独なものなのだと思います。

一人で生きるしかなく、どんな人生を歩んでいても自分が見ているものや感じているものを人に伝えきることなんてできない。

大海原に一人小舟で浮かび続けることは確かに恐ろしく、心細く、人生に意味なんかない、虚しいと感じることもあるでしょう。

だけど大海原で浮かんでいれば、そんな気持ちを抱えている人が自分以外にも大勢いることが分かります。

それぞれがそれぞれの航海をしていて、自分だけの景色を持っており、自分だけの経験をもっており、孤独で、話したいことが山ほどある。

そのことに気付く人が増えたことこそが「個人化の時代」と呼ばれる所以だと僕は思う。

孤独同士って知っていれば他人との出会いや関係を大切にできるのかなとも思う。 FullSizeRender (18)

「フルサト」の意義

航海は確かに孤独な旅路ではあるし、心細いし怖いかもしれない。

正直疲れるものだろうし、自分一人の力じゃどうしようもないってこともあると思う。

『フルサトをつくる』を読んで①/僕のブログはどんな人を見つけるのか。

あたりに繋がるんだけど、だからこそ「フルサト」のような場所が必要なのでしょう。

背の高い土台って這い上がるのは大変です。

だって下から見たらただの高い壁なんだもの。

はしごもかかってなければスロープもない。

不可侵な領域、天空の要塞。

ネズミ返しみたいになってて這い上がろうとしても突き落とされるかも。

だからまるでぽっかりと浮かぶ島のような、小舟でもたどり着けて、さくっと上陸できるような足場があれば良いでしょう。

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※↑写真は「フォト蔵」から転載

船漕ぐのに疲れたらフラッと寄って、それまでの旅の話しとかしながら休めるような場所、遊べるような場所。

RPGに出てくる町とか村とかってそんな感じじゃないですか。

フィールド上にぽっかり現れて、休んだり装備を整えたり冒険のヒントを聞いたりできる。

セーブポイント、安息の地。

そんなのがいたるところに浮かんでれば、航海もそれほど怖くないのではないか。

で、そんな場所自体が刻々と変化する面白い乗り物だったりして、何度来ても飽きないとか、その場に留まるのもアリって思われるような場所ならなお良いでしょう。

そこを拠点にあちこち繰り出しても良いし。

だんだん自然にその場所のカラーが生まれて、こういう人が集まりやすい場所とか、こんなタイプの人にとって居心地が良い場所みたいになっていきます。

その場所を構成する人。

その場所に訪れる人。

そういう風にみんな自分だけの居心地の良い「フルサト」ができあがっていく。

そんな場所の存在が、例えば波の恐怖に打ち勝つ勇気に繋がったり安心に繋がったりするのであれば、自然と「理想」を追い求めるハードルは下がり、みんな好き勝手に浮き輪とかボートとかビート版とかもって泳ぎだすんじゃないか。

土台なんか積み上げなくたって、人生は十分安心じゃないかって思えるんじゃないか。

そんでビート版でここまで来るの大変だったわとか、いかだ途中で崩壊して焦ったわとかって話しが出来る場所があって、そりゃ大変だったねって笑ってくれる人がいれば大したことないって思える。

そこでいかだ直すなり、新しい船作るなりしてまた出かければ良い。

壊れたらまた戻ってくるなりすれば良い。

なんか、それくらいフラットな世の中の方が面白くって清々しいんじゃないかって思うのです

留まるも留まらないも自由。

ただ留まるにしても一度乗っかってしまうとそこから降りるのが怖いなんて堅牢な土台を積み上げるのではなく、危険はない代わりにどんな波や風も感じられない頑丈な要塞に引きこもるでもなく、自分が心地よい安息の地を確保しておく、知っておくってだけで十分じゃないか。

「価値観の多様化」と「個人化の時代」って結局なんだと思う?

まとめ的なことを言うと、「価値観の多様化」というのは単純に生活スタイルが多様になってきたということだけではなく、「自分だけの価値観を貫き通すことが可能になってきた」ということだと思います。

一昔前は好きなことやって生きていけるのは一握りの人間だけ、夢を叶えるのはハンパじゃないって言われたけど、現代では必ず自分の理想にそぐう場所やルートはあって、それは探すか探さないかの問題であると言い切れるという違いがあると思います。

その「理想」っていうのもそんな大それたものじゃなくて、食事を楽しめる人生が良いとか、本ばっか読んで暮らしたいとか、子供との時間大切にしたいとか、週末は仲間と旅行行ったりスポーツしたりって余裕が欲しいなあとかその程度じゃないかな。

誰もかれもスターになりたいとか高級な車乗り回したいとかセレブ目指している人ばっかじゃないでしょう。

そういう人はそういうところに行ってそういう生活目指せば良いって話しだし。

あと歌で食ってくとか絵で食ってくとか文章で食ってくみたいな「理想」も、今までみたいにメジャーデビューしてCD出すしかないとかパリに留学しなきゃとか文学賞取って作家にならなきゃってことでもないでしょう。

才能をお披露目するフィールドも世の中にはたくさんある。

所詮世の中のベストセラーって言っても全体でみたら超極小のフィールドでの話。

TVや宣伝のマジックで誰もが知ってる大ヒットの歌や本に見えても、実際にその作品を手に取って買う人は200万人とかしかいないんだから。

もっぱらTVメディアに親しんでいる人はニコニコ動画で再生数500万とか1,000万を達成している作品の存在をしらないんだろうし、テレビを見ない人は今週のヒットチャート一位を知らない。

で、もちろんどっちの方が優れているという問題ではない訳です。

どっちもすげーのです。

活躍できうるフィールドはたくさんある。

じゃあどこを選ぶ?ということになる。(例えばぱっと思いついたんだけど、今マンガ家目指してる人はcomicoの存在が新しいチャンスの場になる、とか) そして自分に相応しい場所や景色を探すって言うのも難しかったけれど、これからは多様な個性が存在感を増していくのだろうし、情報を得ることも簡単だから、理想さえ明確ならば探すのはそれほど難しくなかったり。

そして「フルサト」のような、職業とか資格とかそういう後付けのオプションやレッテルだらけのあなたではなく、もともとのあなた自身の好奇心と嗜好でふらっと訪れることができる場所があれば身一つで大海原に乗り出すハードルもぐっと低くなる。

個人化の時代。一人ぼっちだって気づく時代

「個人化の時代」というのは、それぞれがスタンドプレーをするということではなく、もちろん共同体を嫌うということでもなく、「それぞれが一人ぼっちなんだという意識を強く持つ時代」だと言うことだと僕は思います。

独りで生きているんだ、自分しかこの景色を見ている人はいないんだ、自分は唯一無二で、誰のためでもなく自分のために生きているのだという事実はひどく寂しくはあるけれど、だからこそ自分に近い感性を持っていたり共有できる部分がある人がいるととても嬉しい。

家族や親友の存在がありがたい。

その人にしか知らない世界、見てない景色があるからこそ、その人の生き方そのものに価値がある。

自分は一人ぼっちで、あの人も一人ぼっちなんだという意識が、一人一人の存在感を増していくのだと思います。

そして自分の話しを聞いてくれて、自分に興味を向けてくれる人がいることが奇跡的に嬉しい。

多くの場合は定められた場所で、定められた人間関係をうまく乗り切っていくしかなかったりする。

どこにいたって人間関係のトラブルはあるだろうけれど、それでも、「個人化の時代」というのは自分だけの世界観と少しでも触れる人を探しながら、お互いに興味がある同士、ある程度関わる人を選べるという時代なのだと思います。

こんな時代に相応しい地域の在り方とか、地域の利用の仕方が今後考えられるんじゃないかな。

さて、アホみたいに長くなってしまいました(9500文字)が、最後まで読んでいただいてありがとうございました!ほんとに。

価値観が変わりつつあるとか、個人化が進む時代とかって言うフレーズを普通に使っている割には、根本的なイメージの共有をしていなかったと思い立ちこの記事を書いたのですが、このような有様になりました。

できるだけ読みやすいように画像たくさん貼ろうと思って、海の模型作ってハリガネで人作ったりしてすごい頑張りました。

本当は島の模型も作って写真撮ろうと思ったけど、めんどくさくなっちゃって島の画像は写真は拝借してしまったのが心残りです。

作文より模型作り頑張ってすごい時間かかってしまったので手作りっぽい画像を改めてよく見てくれると幸いです(笑)。

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コメント

  1. 樋口 より:

    市場から受けれるサービスの多様化のおかげで、社会の最小単位?の家族は大きい必要がなくなった。
    そして家族が小さくなると足が軽くなるから、同じ土地にいるとは限らなくなる。
    人の出入りが多い所に市場ができる。たくさんの価値観が多様に揃う。
    価値観が増えると揃えるべきではなくなる。市場を囲む人たちの個人化が進む。

    さて、流れは見えた。フルサトはなくなったのか。はたまた昔はフルサトしかなかったのか。

    田舎とされる地域は、その中で価値観を共有出来てるのか。

    同じ価値観を揃えるか、異なる個人を許容するか。自分のフルサトはどっちだったか、多くの人に聞いてみなければ、フルサトとは何か見えてこないかもしれない。

    • kzy より:

      コメントありがとうございます。

      そしてくそ長い文章なのに読んでいただきありがとうございました!

      「フルサト」の形にも正解はないのだと思いますが、価値観の多様化が進む現代においてはいわゆる「類は友を呼ぶ」式の、独特の不文律で繋がるコミュニティの数がどんどん増加していくことでしょう。

      形のない部分、明文化できない部分、そんな価値観を一地域で共有するのは非常に困難ですし、する必要もない時代だからこそ個人化の時代なのだと思います。

      ただし、だからこそ耳を傾ける必要がある他者の価値観ですし、耳を傾ける準備がある地域こそが何を求められているのかを知り、自らがどうありたいのかに気付くチャンスを得られるのではないでしょうか。

      他者と自分、相互的に積み上げられる価値観が生まれると面白いですね。