このブログを書き始めてわりと早い段階で気づいたことがありました。
町に一過性の流行とか話題を作っててもダメっぽい、文化を作らなきゃ!
どうしてそう思ったか?は長くなるので省かせていただきます。一言で言えば「あらゆる問題に対処しうる普遍的な解法は文明の利器ではなく文化だ」と考えたからです。
以降、文化ってなんだ?って考えた考えた。
まず文化を作るって言ったらきっと聞いた人は「品物」とか「イベント」を思い浮かべるはずだ、と思った。
「この地域でとれる原料を使った何か作り」とか「地域に昔からある○○踊りの発信」とか、「郷土料理的な雰囲気のものの創作及び発信」とか、そういう、いわゆる「文化的」なものを対象にいろいろ町をPRするんだろうと考えるはず。
漠然と違うと思った。
それは「文化的なもの」であるかもしれないけれど、それを発信したりなんだりする行為は「文明的なこと」であって、「ビジネスの真似事」で、もしくは「趣味の延長」で、文化を守ったり促進したりするいろいろは文化そのものじゃない。
文化とはなんだ。今一応の結論は以下のようになります。
「文化、それはコミュニケーションの底を支えるものだ」
なぜコミュニティは崩壊するのか
文化から少し視線を逸らして、そもそもなんで「町」とか「地域」って存続が危ぶまれてるの?と考えていた時期がありました。
いろいろ理由はあるんだろうけど、もっとも大雑把に言ったら何が原因なの?と。
まず、町や地域が衰退していくということはどういうことかというと「そういう形のコミュニティ」が崩壊しつつある、ということだ。
コミュニティには大小様々。夫婦関係もコミュニティだし、家族もコミュニティ、趣味の集まりもコミュニティ、その流れで町や地域もコミュニティ。
じゃああらゆる形のコミュニティが崩壊するもっとも大雑把な理由ってなに?と考える。人の有機的な集まりが機能しなくなる原因は?
「コミュニケーションの崩壊」が問題である、という結論に行きつきました。
僕らはコミュニケーション不全に陥ったとき、集団やチームとしての機能やアドバンテージを失う。
ただ一緒にいる、だけではコミュニティにならず、コミュニケーションを通して大小さまざまな問題を解決する方法を実行できなければ図体がデカいだけの代物になってしまう、から崩壊する。
夫婦の関係が崩れるのも、地域が存続できないのも、コミュニケーション不全が問題なんじゃないか。
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文化とは、コミュニケーションの底を支えるものだ
コミュニケーションの底を支えるものが文化だ。
そう結論づけたのは、いわゆる文化的なもの、地域にあって衰退しつつある文化的なものの意味を考えたからです。
例えば「お祭り」は僕にとってあまり魅力的なものではありません。
みんなでお神輿を担ぐことになんの意味があるのか。どうして躍起になって守らなきゃならないのか。
きっとそれは、一致団結して一つの単純な行為を行うことが、コミュニケーションを底支えする儀式になっているからかもしれない、と思いました。
一種のイニシエーションであり、単純で意味のなさそうなこと(つまり失敗しにくいこと)でもみんなで力を合わせてやればそれなりにお互いが仲間になれる。
そう考えてみればもっと簡単なもので良いですし、実際僕らの生活にはそういうコミュニケーション以前の準備のような「文化的な営み」がたくさんあります。
同じ釜の飯を食うとか、温泉で裸の付き合いをするとか、杯を交わすとか。
文化の多くは、「腹を割って話す」や「胸襟を開く」に至るために一躍買っているものなんじゃないか?
そういうものを指して、「文化」と呼ぶんじゃないか?
結局、コミュニケーション以前の地ならし的な儀式なんだろう文化というのは。
その中からときに伝統工芸と呼ばれるまでに昇華された技術が生まれたり、郷土料理といった土地に根付いたソウルフードが生まれたりすることがある、ということなんじゃ。
僕は「退屈」という大問題を解決しうる地域の文化を作る
だから作るべきも、守るべきも、「出来上がったもの」じゃないと思う。
参加者が少ないし見る人もいないけどこれまでずっとやってるお祭りを続けることがイコール文化を守ることじゃない。
どうせ形骸化した文化なら、需要があるなら続ければ良いし、需要がないなら止めてしまって良いと僕は思う。「文化だから守らなきゃ」、「文化だから次世代に託さなきゃ」は思考停止ってやつだろう。
仮に文化とはコミュニケーションの底を支えるものだという考察が正しいのなら、文化は時代によって形を変えて良いし、多様化しても、細分化しても、なんでも良いんじゃないか。
大勢でワイワイやるのが苦手な僕のような人間は「お祭り」のような文化が必要だとしても参加しにくい。お酒を飲み交わし大声で話す場もしかり。
だから僕は僕で文化を考え、文化を作ろうと思いました。
それはどこまでも内向的で大人しく、少人数で行う創作の文化。
共に創るコミュニケーションを通して「退屈」という大問題を解決しうる、地域に潜む文化。
そういうことを考えます。
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