民主主義をどう捉えるか

少なくとも民主主義は、絶対の解を求めるために話し合うためのシステムではなく、正解が見つからない状態で妥協点を見つけるために話し合うためのシステムであることは間違いない。

みんなで幸福を作るのではなく、みんなで不幸を分け合うためのシステム。

少しずつ誰もが不本意だけど、誰もが自分の我も通せないし見ようによっちゃ不幸なんだけど、みんなで協力して生きなきゃなんだから他を尊重する秩序を守りましょう、とにかくみんなで生きるという点に集中しましょうってのが民主主義の精神にあるんだろう。

だから国民はみんな自分で自分なりの幸福を追求する権利を持っていて、不幸はともかく、幸福かどうかについてはそれぞれが責任を持ちましょうって感じになってるんじゃないか。

僕は政治経済の授業なんて一瞬も覚えてないし、ニュースもろくに見ないし、いわゆる政治に関心のない若者に入ると思うけど民主主義の捉え方については多分認識として間違ってない。

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上下はない。違いがあるだけ

そもそも民主主義ってこういうものですよって学校とかで習うだろうか。習ってないような気がする。だから自分で考えなきゃいけない。

聞いたのかもしれないけど中学とか高校では全然理解なんかできてなかったし、やっぱり思い出してみても、「みんなで話し合うって平和だよね、昔は圧政や苛政に苦しんで亡くなる方がたくさんいたけど、少なくとも日本では国民の意志を届ける術があるもんね」みたいな言い方で教わっていたような気がする。

こう聞くと、「不満があれば文句が言えるんだ、訴えることができるんだ」っていう風に捉えてしまうような気が僕はするけど(実際にちょっと前までこんな風に考えてた)、この認識だと、構造的にはやはり国民より上の存在があって、その人たちの好きにはさせない術として民主主義があるように見える。

でも民主主義において国の代表はあくまで代表であって、いわばド平均の人間たちで成り立っているというのが建前なんじゃないだろうか。

理想は国民一人ひとりと相談してなんでも決めるべきだけど、それが実際には不可能だから、みんなの中から適当に何人か人を選んで、その人たちの話し合いで国民の総意としましょうやということになってるはず。

目的は妥協点を探すこと。

絶対に自分の意見こそが正しいのだ、この道が幸福への一本道なのだと主張するのではなく、よりバランスの良い妥協点を探すための自己主張なんですよね。

だって僕らには建前上ではだけど上下はなく、違いがあるだけなのだから。それを踏まえて、みんなで共同の土地で生活するためにはどうしたら良いか?という方法論の一つとして民主主義があるのだろう。

民主主義的な思考が根付いてる?

そんなことはみんな分かってるし、言ってしまえば民主的な話し合いなんて日ごろからしてる。

今日何を食べるか決めるとか、旅行先を決めるとか、お祭りをどうしようか話し合うとか、あとは、まあ色々、とにかく僕らが何かを話し合うとなれば当たり前に民主的な方法が取られる。

民主的な方法ってのは単純に多数決とかそういう方法のことじゃなくて、他者の意見を尊重しつつ、自己主張をして、ゆっくりと妥協点を見つけるってやつ。

てか多数決だって、それがいくら民主的な方法だからって何でもかんでもすぐに多数決で決めるようになったら民主主義の精神に反しますよね。勢力が過半数を超える状態だと確信してるのであれば多数決はマイノリティを黙らせる方法でしかないもんね。

こういう話になるとまたややこしくなっちゃうな。

何が言いたいかと言うと、僕らの中に民主主義はもうだいぶ根付いてて、ごく普通に民主的な方法で平和に話し合うクセみたいなのはあると思うけど、国の問題となるとスケールが違うからどうしてもちょっと熱くなっちゃうんだよなーってこと。

不幸を分け合うたって、その不幸ができるだけ平らに均した、ちょっとずつ薄めたものだとしても一人ひとりにとってはけっこうデカいし、命に関わることだったりするんだもんなあ。

要領を得ない言い方になっちゃうけど、別に僕「言いたいこと」がある訳じゃなくて「考え事」があるだけなのです。意見じゃなくて観察の結果があるだけ。だからこの記事最後まで要領を得なくなりそうです。

妥協の産物たる民主主義システム

それにしても、民主主義システムが不幸を分けるためのシステムなのだとしたら、妥協のためのシステムなのだとしたら、あんまりおもしろい話し合いが展開されるとは思えないですよね。

それも身近な人同士で、例えば家族同士で不幸とか不運を分け合うというならまだしも、どこの誰かもわからない人間の不幸をなんで関係ない私が被らなきゃならんのだって思うのは人の心として当たり前でもある。

誰かが不幸な生活を強いられていても、えーそんなの知らないよ自分のせいなんじゃないの?って思ってしまう。私はそうならないように努力したし、今も努力してる。リスクマネジメントをしてる。その人が不幸や不運を招いてしまうのはその人にも少なからず責任があるはずだ。

そりゃそうかもしれないけど、怠け癖とか楽観主義とか先のことを考えないとか場当たり主義とか姑息だとかそういうこともまたどうしようもない「違い」なんですよね。

何度言っても怠けたりサボったりする人もいれば、何度言っても休まない人もいる。

一方は働き口がないという不幸に陥り、もう一方は過労で入院という不幸に陥る。

それぞれがどうしようもない困ったちゃん要素を少なからず持っていて、その良し悪しは観測地点と目的とタイミングにより違い、つまり何が正しくて何が間違ってるかなんて誰にも判断できない。

自己責任とかじゃなくて何がどう転ぶか分かんないんだから、みんな等しくどうしようもない状態になってしまう可能性はある訳で、だからお互いさまってことで、明日は我が身と思って、不幸は分け合おうよってのが民主主義国家ですよね。

何が君の幸せ

てか、民主主義ってシステムの導入自体がもうどうしようもなく妥協の産物だと思います。

だって超優しくて賢くて力持ちの神様がいて、その神が政治をすれば全部うまく行くに決まってるけど残念ながらそんな神はいないから僕ら自分で何とかしなきゃならないわけですもんね。

神じゃなくてもパーフェクト超人が一人いれば良くて、その人が我々の面倒を見てくれるならなんの問題もない。

でも所詮、「過つは人」であるから、人である限り完璧なんて存在する訳がない。独裁国家なんて危険すぎる。

そんならみんなで話し合って妥協点を見つける民主主義の方がリスクは減らない?少なくとも独裁国家と違って代表を間違ったからと言ってすぐさまどうなるってシステムじゃないし。

そうだね、最高もない代わりに最悪もないよね。

つまり、民主的な国に生きている以上、どれだけ政治がうまくいっても最高を与えられることはない。政治が僕らを幸せにしてくれるなんてことはない、と僕は思う。

だから何が自分の幸せなのかについてはほんとよく考えなくちゃいけないなって最近改めて思った。

民主主義をどう捉えるか(完)

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