長崎の異国情緒ってなんなんだいと考えてたら落ち込んだり勇気が出たりした【長崎に行ってきたよ④】

発想と行動を記録する

長崎と言えば異国情緒溢れる街並みが満喫できる観光地として有名ですよね。

鎖国時代にも外国との交流があったという長崎ですから、さまざまな文化が入り混じり独自の雰囲気を作り出しているようです。

なんでも、「日本の和」と「中国の華」と「オランダの蘭」の文化が入り混じってる様子を指して「和華蘭(わからん)文化」って言ったりするらしいです。面白いですね。

それは食に表れ、建造物に表れ、言葉に表れる、のかな?

そうなのかもしれないけど、異国情緒ってなんなんだいって僕長崎いる間すごく思ってた。別に何を考えたという訳でもないけど、みんなが言う異国情緒って何を指して言ってるの?と。

例えば、文章で異国情緒を醸し出したいと考えたとき、一体どの材料を使えばそれを伝えることができるの?異国情緒を作るレシピはなんだい?ということを少し考えてみたいと思います。

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文化が混ざってるなんてどこも一緒だろう

異国情緒ってなんだい?って話なんだけど、色んな文化が混ざり合って独自の空気感を醸し出していると言えば、昨今ではどの都市でもそうなんじゃなかろうかと考えてしまうのが僕の冷めてしまっているところです。

長崎に降り立ったときにまず感じたのは「異国情緒」っていうより「都会っぽいな」って印象でした。あ、でも多分思い込みのせいだけど、言われてみれば海外の都会っぽいかもなとも思った。エキゾチックな香りがしないでもないかな?って。

いやいやでも待てよ飲まれるなと僕は自分に言い聞かせました。

例えば食文化なんか、今は伝統的な和食を食べる機会の方が少ないんじゃないの?って思うのです。週に21食食べる機会があれば、内15食くらいは洋食なんじゃない?少なくとも純粋な和食じゃないんじゃない?って。

だから色んな文化が混ざり合ってるなんて今の地球では当たり前だろ?って。

建物だってそう。新しい家屋はだいたい異国の趣を持っているどころか、間取りデザイン材料に至るまで、もうほぼ100%海外伝来のものと言っても過言ではない状況。

むしろ伝統的な日本の文化が色濃く残っている京都とか、小京都と言われる石川の方にこそ、僕なんかはもの珍しさを感じます。

言葉は言わずもがな。

長崎 住宅街

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生成りの異国情緒を感じよ

いやいや異国情緒って言ってるのはそういうことじゃないよとおっしゃる方もいるかもしれません。

僕もそれには薄々気づいてはいる。けど書く。

長崎の何が独特かって、様々な文化がない交ぜになって「自然に」今の形になっていることです。

ごくごく自然に、当時長崎を行き来していた人々から伝わった文化が流れて混ざって、「結果的に」独特になっているというところ。

お、それ良いねって真似したモノじゃなくて、都合良くきまぐれに適用したものではなく、「生成りの」とでも言えば良いのか、生物が成長するように、そうなるべくしてなったという辺りに最大の価値と意味がある。

それが満喫できるのが長崎という土地なのですね。

はあなるほど。でもじゃあそれって僕みたいなのがぷらっと行って感じられるものなんだろうか?

長崎で感じられるという異国情緒って、僕が簡単に持ち帰って人に伝えたりできるものなんだろうか?

ソテツ グラバー園

文脈やストーリーがあってこそ機能するもの

自然にそうなった、ということを意識するためには、それなりに歴史を知らなければなりませんよね。

例えば、長崎に立派な教会があるのと、その辺に立派な教会を作るのとでは全然違うということ。

長崎の教会にはたくさんの観光客が訪れます。それは長崎という土地が育んだ歴史の中で、自然にできたものだからです。そこにストーリーがあり、深みがあるから。

単純に長崎観光をして、「そうか立派な教会は観光客に受けるのか!」って考えて誰かが自分の町とかに教会を作っても、とても同じ趣は出せない。

立派なものだったら、もしかしたらそれなりに見に来る人はいるかもしれません。

でも、ここで表れるストーリーは「人集めのために作った」とか「目立ちたくて作った」という浅いものでしかない。そこには信者の姿もないし、宗教弾圧の歴史もない、ただ財産にものを言わせて作った教会風建築物があるだけとなる。

僕が心配してるのは、僕が感じた異国情緒を文章にしようと思ったときにも、こんな上っ面だけの張りぼてみたいなヤツが出来上がるんじゃないの?ということなのです。

グラバー園 お土産通り

どこか本物じゃない異国情緒

僕は長崎でほんとうに異国情緒を感じられたのだろうか。異国情緒と言われればこれがそうかな?って感じる何かはあったけど、それは本物?

めちゃくちゃめんどくさいこと言ってるようだけど、一人で歩いてるとこんなこと考えてしまうのです。それが一人旅の良さで、辛さです。

確かに、都会っぽさというよりは少々独特なものは感じたし、それはいわゆる異国情緒だったのかもしれません。札幌の夜と長崎の夜はやっぱり違ったもんな。

例えばそういうものを文章上で伝えようと考えたとき、どんな材料が必要なの?

外国語、港の香り、慣れない食べ物と水の匂い、生ぬるい風、宗教、熱帯植物、お酒、女性。

そんな単語が浮かんできました。異国っぽさを表現するのに必要なものなんじゃいかって思うものです。異国情緒にある共通理解ってどんなものだろう?って考えたときに最低限あるもの。そういうものを感じて、人は異国情緒ってやつを体感するんじゃないの?ってこと。

港が臨める

だからそれらを使って、「長崎の異国情緒が溢れる街並みを堪能しました!」って書くのは簡単なのかもしれない。

しかしこんなものを並べても、「異国情緒」を再現することはできないなとも思う。

つまり、これも出すべくして出すものではなく、自然に醸し出る類のものなのかもしれない。

僕が感じた異国情緒はそれなりに本物だったかもしれないけれど、それを文章という形で表に出そうと思ったとき、要素を寄せ集めて作ったものはどこか本物じゃない。なんか釈然としない話かもしれないけど、そう思いました。

そう考えると、僕が書けることってすごく少ないなと思うし、僕にしか書けないことがあるんだろうなとも思う。

結局何が言いたいのかというと、異国情緒ってなんだ?って考えてるうち、なんかへこんだり勇気が出たりしたってこと。

書きたいって思って、書けないなって思って、あ他に書けるものがあるかもという絶望から希望へとなだれ込む感情のジェットコースター。

旧香港上海銀行長崎支店記念館

宿でウトウトしながら、長崎を舞台にした小説…小説って考えて、カズオイシグロの『遠い山なみの光』を思い出しました。これは、なんかよかったんだよなあ。

『私を離さないで』よりも『日の名残り』よりも好きだったかも。

遠い山なみの光 (ハヤカワepi文庫)

ああそういえばこの人の文章に感じる「濃さ」みたいなものからは異国情緒を感じるな、よし帰ったら読み直そうって思って一週間経った今もまだ読んでない。

あと、もっと長崎を舞台にした小説を読まなくちゃ、「長崎の感じ」を探さなきゃって宿で言いようのない焦燥感に駆られて、『青い棘』っていう小説があるって知ってアマゾンで買いました。こちらもまだ読んでない…。

意志よわ。

青い棘

長崎の異国情緒ってなんなんだいと考えてたら落ち込んだり勇気が出たりした【長崎に行ってきたよ④】(完)

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