まちづくりはどうなれば成功なのか。

こないだ書いた、形が先って言っても、とにかくやってみるとは違う。/毒舌キャラの作り方 の話題を微妙に引き摺りつつ、「まちづくり」のテーマに寄せて考えたいと思います。

最近見ている創造社会論の第四回目(四本目のビデオ)の最初の方で質疑応答の時間があったのですが、そこでの生徒さんと先生(井庭先生、松川先生)のやりとりを元にこの記事は書きます。

興味のある人は勉強になるのでぜひ講義を見て欲しいんだけど、この質疑応答はかなり僕自身が抱いていた疑問と通じるところがあったので講義の内容とほぼ同じですが引用はせず、あくまで自問自答のように書いて行こうと思います。

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デザインの完成は微動

まず、ここまで考えてきたことのおさらいも兼ねて重要なキーフレーズを挙げるとすれば、「部分の総和は全体にならない」というものがあります。

あらゆるもので説明できて、建築でもそうだし、漫才でもそうだし、デートでもそう。言ってしまえば人生そのものがそう。

詳しくは

目標を達成するには必要な要素を並べてもダメ。「無駄」が要素を繋ぎ、目的を達成するカギとなる。

とか

部分の総和は全体にはならない。材料を揃えても最終的にイマイチになるのはなぜ?

とかを読んで欲しいんだけど、じゃあ町でもそうだろうと。

一言でどういうことなのかと言うと

問題を孕む要素を一つ一つ細分化して解決しても、それを組み合わせた全体が、好ましいものになっているかどうかは分からないということです。

人間にとって正しさと好ましさは違うもので、いくら正しさを集めても、好ましくなるかどうかは別問題という話。

その当たり、好ましさを作るってあたりにデザインの力があるんだけど、そのデザインの定義というか、デザインに必要なプロセスっていうのは、「要素」と「コンテクスト(文脈、価値、評価)」を照らし合わせて、それらをフィット(適合)させていくというものです。

つまりこれが正解だ!という風にダンっと生まれるものではなくて、本当に好ましいものはそのときそのときの環境とか条件に合わせて軌道修正やら微調整やら試行錯誤を繰り返して、自然発生的に、地道に生まれたものであると。

好ましさってのはほんと感覚的なもので、似合ってるとかしっくりくるとか違和感がないとかって程度のファジーな言葉で表現されるものでしょう。

数値化するのがまだ難しい領域だから、デザインっていうのは今のところ人間がやった方が早いのではないでしょうか。 というのが、前々回とかその前の記事で書いたこと。 じゃあ、町はどうだろう。

限定されるコンテクスト(評価、価値)

まちづくりという枠組みの中では、どうしても主観的な好ましさとは別に、客観的な評価が先行してしまうと思います。

まちづくりに成功した町と言われるときはきっと、ごく限られたコンテクストでしか語られないと思う。

例えば「経済の潤い方」とか「観光客の増加率」とか「地域やイベントの知名度」とか「移住世帯数」とか、そういう数値に換算しやすい、分かりやすいもの。

それらがプラス方向に伸びていれば、その地域は成功したと言えると思うのですが、それって実際にはどうなの?という疑問があります。

そもそもデザインのプロセスである「要素」と「コンテクスト」のフィットという方法そのものが、本当に好ましさを生むことに繋がるのかなと。

「町」で言えば、まちづくりに関わる行動すべてが要素になりますよね。

ゆるキャラとか地域の特徴を活かしたお菓子作ったり、空き家の整備したり。

コンテクストというのは、それをするに至った「文脈」、どれだけそれを行う必然性があったかという「意味」や「ストーリー」の部分で僕は捉えたいと思っているけれど、実際に本音でリアルに考えるとやっぱりどうお金に繋がったかという「評価、価値」で語られるんじゃないだろうか。どれだけ売れた?どれだけ増えた?という部分。

増加しなければ失敗と捉えられるでしょうまちづくりの現場では。

なぜなら、「まちづくり」の目的が住民の好ましさを作るためではなく、世間的に優れた町を作ることに終始しているから。

いやいやこう言うと反論したくなる人もいるでしょう。

いかにお金以上のものを得られるか、お金を介さずに幸福を得られるかという基準で町の機能を意識的にデザインしている人、その地域の魅力をアピールする人もいる。

景色がキレイだとか、食べ物が美味しいとか、地域の人とのつながりがあるとか、自分で作った農作物を食べられるとか、時間がゆっくり流れるとか。

そういう、人間の本質的なもの、人生の充実をダイレクトに得るためのあれこれも生存戦略の一つで、まちづくりの大事な要素であるようです。

しかしいずれにせよ、まちづくりでは経済的なことを(経済から解放されるということも含め)はじめとする生活上の「有利さ」を評価基準のボスとして据えていることに間違いはないと思います。

あえて嫌な言い方をすれば、結局「人より有利に生きられる部分が売りになる」ということ。

偏ったコンテクストが形の偏りを生む

このコンテクスト(評価基準)の偏りは、自ずと形の偏りを生みます。

建築の世界だってこの偏りは生じている。

経済的な指標というコンテクストは強力だから、画一的なデザインの家も増える。

要領良く、安全でキレイな家を、手頃な値段で買えるということを世間が望んだから、いわばそれが最適解となり、自然に目指す方向が決まり、形が決まる。

しかし対極に、自分で家にあれこれ手を加えたいとか、自分のデザインにこだわりたい、間取りで工夫したいと言ったものを前提にした建築もある。

創造社会論の中で松川先生によれば、オートクチュール的(オーダーメイド)な建築と、プレタポルテ的(既製品)な建築と言う言い方をしていましたが、現状はその両極端になってしまっていると言います。

建築でそうなっているように、「まちづくり」の世界でもそうなってるなと感じるのです。

だから、既に要素とコンテクストはマッチしてるってこと。

デザインの定義に当てはめれば、時代という流れが選んだ形が今あるのだから、デザイン的に優れた町ができていると言っても良い。

つまり、何を以って「町おこしに成功した」と言えるのかという答えはもう出ていて、この時代が選んだ、この時代の価値観によって成長・発展を遂げている市町村はまちづくりに成功していると言える

この理屈はみんな分かると思うし、僕も理解できるのだけど、やっぱり釈然としないものがあります。 理屈ではなくて、そんなの「つまらないよね」っていう不満です。

自然はいつも最適解をはじき出しているか

何がつまらないって、評価され、最適なものしか残らないという点です。

それはとても自然なことではあるようだけど、今ある自然を見てみても、必ずしも最適なものが存在している訳ではありませんと松川先生は言います。

結果的に最適なものが残る(あとからそう判断される)のだとしても、その答えは常に今の段階では分からない。常に暫定的です。

現状は常に(あえて言えば)無駄なものと適したものが入り乱れ、多様な姿のまま存在し、それぞれが環境に合わせて試行錯誤を繰り返している、というようなことも仰っていました。

これは、本当の自然は決して答えを求めないとも言えるのではないでしょうか。人間と違って。

「最適解をはじき出す」というといかにその無駄を排除するように思いがちですし僕もそう思っていましたが、それは違う。

人間が変わり続けることを怠けて、常に「最適解=これで大丈夫、こうしておけばオーケー」を知りたがるというだけ。

無駄を踏むというスタイリッシュじゃないプロセスや要領の悪い試行錯誤は必要。

建築も、多分町のデザインも、生き方も。

で、今その要領の悪さを担っているのが、町おこしに成功しているとは言えない市町村でしょう。

つまり現在の淘汰圧に対抗できず、滅びつつある市町村。

だから「まちづくり」と称してそれぞれが生存戦略を掲げている訳なんだけど、その方法論が生活上の「有利さ」という評価基準の元に画一的になってしまっている。

とりあえずの「答え」目指して、みんなが同じゴール目指して競争してる。

終わりのない試行錯誤が自然な形なのだとしても、それじゃ生き残れないものは生き残れないから仕方ないことなんだけど、それってなんかつまらないよね、殺伐としてるよねという話です。

自然を越えた超自然的なデザイン

今回の話題は今まで以上に屁理屈めいているし、伝えるのもすごく難しいんだけど、僕が何がつまらないって言ってるかというと、なんか人間ってここまで進化してもまだ自然淘汰とか適者生存とかって生き物くさいことやってんの?って思うのです。

何と言うか、ここまで「これが正しい形なのだ!」っていうことだらけの文明の時代、「適切な形」ってものを求めずにはいられない文明に偏った時代、やっぱりそこから抜け出すのは難しいのかなと。

あらゆる場面でマナーがあり、手続きがあり、常識があり、セオリーがあって、オリジナルに生きることなんかよっぽど意識しなければ難しい時代です。

何が難しいって、自然淘汰以前に人間同士のお約束っていう同調圧力によって淘汰されるものが多くて、言わば「人工淘汰」があるから難しい。

人間にとって、価値が分かりにくいこと、価値が目に見えないことは「無駄」であって、生理的に受け付けないものなのかもしれません。

経済に繋がらなければ「意味のないことをやっている」と思われるし、そういった価値に繋がらなければ「失敗」と捉えられる。

反対に「赤字覚悟のサービス」とか、「お金じゃない」って言う基準で動くことを必要以上に美談にしてしまったり無暗に称賛することも、逆説的に「経済」ってボスから逃れられていない証拠に見える。

だけどどうだろう。

こんなに窮屈な世の中でも、やっぱりこの世は多様で、十人十色で、間違った道も正しい道もないという認識が、固い地盤を割って出てくるマグマみたいにボゴボゴと音を立てて溢れ来つつある現代において、「何を以って成功か」なんて考えなくて良いんじゃないかなと思うのです。

町には人が住み、小さくてもたいていどこも幾千の人が生活を営んでいます。

複雑で、多様で、画一的な指標で良し悪しを判断できるような入れ物では到底ないのだから、僕の町も人工はもちろん自然も越えて、誰もがオリジナルの試行錯誤を繰り返せるようになれば良いと思います。

強いてタイトルの問いに答えるとすれば、その多様性や答えを定めない自然的な営みを認め、それでもそれぞれがそれぞれの「納得」を見つけられるような場所になれば、まちづくりは成功したと僕は感じると思います。

  まちづくりはどうなれば成功なのか。(完)

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