「好き」という感情は「コントロールしたい」という気持ちなんじゃないか。

 

切なさと甘さがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、好きという軽々しい、あっぱれな名をつけようか、私は迷う。

その感情はあまりにも自分のことだけにかまけ、利己主義な感情であり、私はそれをほとんど恥じている。

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『悲しみよこんにちは』の冒頭を丸ごとパクって、「悲しみ」の代わりに「好き」という感情を入れ、少し各箇所をいじってブログ記事の冒頭にするというオシャレ感のある試みをしてみました。

思いつきでやっただけで特に深い意味はないのですが、「好き」って割と現代では軽々しく口にされる割りに、真剣にその質感や量感を吟味することはないんじゃないか、と思ったのがこの記事を書こうと思った動機です。

少なくともこの感情に「好き」という名前を与えて良いのだろうか?と考えることはなく、ひたすらライトに、それでいて印籠のように「好き」という言葉を僕らは使ってやしないか。

結果、身の回りには漠然とした好きなものが溢れ、もしくは気まぐれに好きなことを探す旅に出て、好きを仕事にするとか、好きな自分でいるとか、やたら人生が好きで侵されて、逆に好きってどんな感情だっけ?という一種の麻痺状態、感情のゲシュタルト崩壊に陥ってはいないか。

だから「好き」という感情の本質が、一体どんなものなのかを少し考えてみました。

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好きという言葉は荒い

「好き」という言葉はあまりにも荒いと思います。

朱色も紅色も茜色も鴇色も全てひっくるめて赤と呼ぶような荒さがあると思うのです。

もっと「好き」という感情を疑って、違いを意識して、いっそ別の名前を付けても良いくらい、僕らが普段日常で抱く好きという感情にはバリエーションがあるのではないでしょうか。

例えば星空や海を見て落ち着くときの好ましい気持ちと、異性に対して抱く好ましい気持ちは違う。

仲の良い友達と談笑する時間の好ましさと、一人で夜の散歩に出かけるときの好ましさは違う。

好きなものやことは身の回りに溢れているかもしれないけれど、これが好きなんだと言ったとき、相手が理解する「好き」という感情は一体どんなものなのか。

果たして好きという言葉はいつも正確に伝わるのだろうか。

相手の言う好きを、鏡のように理解する

でも、僕らは誰かに「これが好きだ」と言われたら、普通に納得できますよね。

「この曲好きなんだ」と言われたら普通に分かるし、「この人が好き」と言われたら普通に分かる。曲が好きと言ったときと、人が好きと言ったときの「好き」には確かな違いがあると思うけど、誰もがその差異を心底で感じながら理解するのだから、そこに大きな誤解は無いと思う。

きっと誰もが、自分の好きという感情に照らし合わせて、同じベクトルというか同じ質感の好きという感情を上手に引っ張り出して来ては、相手の好きを、鏡のように理解する。

だからどんな種類の好きでも、「好き」という共通語一つにまとめて使って問題なく今まで過ごせていたのだと思う。

ところが最近になって、「好きを仕事にする」みたいな人が増えて、「好きなように生きる」とか「自分の好きを尊重する」とか、そういう、好きを中心にするライフスタイルを形作る風潮が芽生えたあたりから、「好き」ってなんだ?みたいな疑問が沸き起こってきたように思う。僕の中で。

好きという感情のカラー

好きっていう感情はなんなんだ?

理屈じゃないとか言って誤魔化すのは控えたい。

だから試みに、好きなものを一つずつ思い浮かべてみて、それぞれが確かに好きだと感じて、さらにそれを並べて仔細に見て行くと、好きという感情は必ずしも陽性で明るいオレンジハッピーテンション上がるぜみたいな感情でないことが分かる。

どちらかと言うと僕の場合、好きという感情はブルー。ときには切なくなって、不安になりそうな感情に近く、ちょうど台風が接近してくるときのような、自分の内側も、窓の外もソワソワしている感じがもっとも近い。静かな興奮という感じ。

こういえば何人かはえーっと声を出して、それはおかしいよと言うかもしれないですよね。

しかし一方で、「分かる分かる。好きという感情には、オレンジ色のものもあるし、ブルーのものもある」

そう言ってくれる人も絶対に何人もいる。むしろ普通の人間はそうだろうとすら思う。

好きという感情は全然一色ではなくて、決して善性や陽性に限った感情ではなく、空の色が変わるけどどれもキレイに感じるように、まさにそのときの気分に合わせて変化する、インタラクティブな感情とでも言うべきものだと思う。

気分の変化と、フィット感が好きの本質?

僕らの好きという感情の本質は、気分の変化とそれにフィットするかどうかの判断だけなんじゃないか。

僕らの気分は変化して、それに相応しい色合いのものを好ましく思うということ。

気分が変化するのは間違いないとして、例えば疲れたり悲しかったりするときは「夜の海」を好ましく思って、元気が余ってて笑いが止まらないときは「お酒」を好ましく思う。

好きという絶対的な感情があるのではなく、自分の気分にフィットするかどうかがある。

で、自分の気分の変化なんて、変化すると言ってもある程度一定だと思います。

例えば僕で言えばいくら明るい気分のときだって楽しくなって踊り出したくなるようなことはないし、落ち込んだからと言って自傷したりすることはない。

さっき、僕の好きという感情はブルーだと言ったけど、それは単純に僕の気分がいつも静的な位置に設定されていて、背景がそんな色という感じで、基本的にはわいわいとした居酒屋よりは静かな本屋さんが気分にフィットすることが多いというようなこと。

海だって昼間行くよりは夜の方が良いなって思うようなこと。

好きなものはコントロール可能な領域に置いておきたい、コントロール精度を上げたい

以上を踏まえて、例えば「好きなように生きる」ってどういうことかを考えると、それはいかに気分とそれに見合ったものを探し出せるかというだけではなく、いかにコントロールできるかという問題なんだと思う。

仮に僕の基本的な嗜好(居酒屋よりは本屋さんが好き)を周りの人が理解してくれなくて何度も飲みに誘われたり、本を読んでるところを馬鹿にされたり、近くに本屋さんがなかったりすれば僕は辛い思いをすると思う。もしくは本を読む時間すらないほど忙しい仕事だとか。

ここがコントロールということで、自分の気分に合わせて、ぴったりフィットする何かにすぐ触れられないという状況、手に入らないという状況、もしくは微妙にフィットしない状況(本屋はあるけど欲しい本は全然置かれないとか)はかなりストレスフルだと思うのです。

好きなものはコントロール可能な領域に置いておきたい。もしくはもっとコントロールの精度を上げたい、と考える。

だから仮に僕が本気で本屋さんが好きなら、すごく単純に言えば、本屋さんで働けば幸せってことになって、自分の好きを仕事にできるのかもしれない。

好きって一体どんな感情なんだ?

僕らはみんな気分の変化を体験する。そして基本のトーンみたいなものをみんな持っている。

そういった気分やトーンに見合うものを、僕らは「好きだ」と感じるんじゃないかと仮定してきた上で、さらに、僕らはそういうものをコントロールしたくなるんじゃないか、ってところまで考えました。

例えば、政治は好きかと聞かれれば、僕は別に好きじゃない。だからあまり今の政治のここがけしからんとか、もっとこうすべきとは思わない。

無理やり考えて意見らしいことは言えるかもしれないけど、日ごろから好きでいろいろ考えていて、友達との会話とかで自分からおもむろに政治の話題をあげて、なんてことは無い。

でも最近思うんだけど、政治が好きな人ってけっこういますよね。政治のことになると一家言あるぞみたいな人。ホントはみんなそうじゃなきゃいけないのかもだけど、政治参加の意志とかは置いといて、普通の会話のトピックに政治を選ぶという意味で政治が好きな人。

そういう人は間違いなく政治が好きで、好きだからこそコントロールしたい欲求が強くなるんだと思うのです。

その他にも、色々と好きなものについて考えると、好きって感情は「どれだけコントロールしたいか」と言い換えることができるんじゃないかと思う。初めは理屈なく自分の気分や五感にフィットするかどうか程度だけど、「これが好きなんだ」と自覚する頃には、もしくは他人に伝わる頃には、コントロールの要素が強くなる。

あんまりコントロールとか言うと角が立つかもしれないけど、好きな人に対して束縛が激しくなったりすることがあるのも、好きな景色を絵に描いたり写真撮ったりしたくなるのも、文章を書くのは苦しいのに上達を目指すのも、全部コントロールしたいという気持ちの表れで、そういう感情を柔らかく、僕らは普段「好き」と言ってるんじゃないか。

好きの反対は無関心

そう考えると、「好きの反対は無関心」とはよく言ったものだなと思います。

「嫌い」って言っちゃうと、まだ若干コントロールしたい気持ちがありますもんね。遠ざけたいとか、傷つけたいとか。

よく嫌いな芸能人のブログをなぜか見ちゃうとか、ムカつくユーチューバ―の動画再生しちゃう、だけでなく辛辣なコメントまで残してしまうとかってありますもんね。もうそれそんな粘着するのって好きってことなんじゃないの?みたいな。

「好き」という感情は「コントロールしたい」という気持ちなんじゃないか。(完)

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