地域というコミュニティに必要な概念/イメージ、ルール、アイデンティティ

僕らが常日頃から守りたいと思っている「地域」ってものの実態は、実のところよく分かりませんよね。

人が大事?入ってくるお金が大事?役所があるとか学校があるとか交番があるかとかが大事?

どこからどこまでが僕らの考える地域の実態で、何がなくなったら地域じゃなくなるんだろう。

僕らが守りたい「地域」ってなんなの?

そんなもこもこと実体の分からない「地域」でも、この先も連綿と引き継いでいかなきゃいけないの?

そう、その努力をしなくちゃならない。

どうやって?

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概念を共有している集団がコミュニティだ

僕らが言う「地域」や「まち」というのは、実態ではなく「概念」です。

お金は目に見えるけど「概念」なのと同じように、僕らの共通するイメージ(名前とか印象)や約束事(機能)が集まってできた、今限りのマヤカシみたいなもの。

じゃあいっそ「共通するイメージ」ってやつだけでも「地域」って成り立つんじゃないの?そうやって地域を持続させることも可能なんじゃない?というのが みんな架空のまち で書いたことでした。

で、もしかしたら誤解された部分もあるかもしれないけど、僕は「地域を守る」「地域を持続させる」必要なんてない、という意見の持ち主な訳ではありません。

僕が住んでいる朝日町の場合、もう合併しちゃってますから、この町を守るんだ!って意識が既に希薄なだけ。

その上で、僕らが守りたいと思っている「地域」ってなんなの?ということを考えただけ。

そして「地域」って概念だよねと思ったとき、なるほど「コミュニティ」とはその「概念」を共有している人たちのことを言うのだと考えることができて、少しスッキリしました。

コミュニティが共有する概念は、「共通のイメージ」「ルール」「アイデンティティ」

コミュニティというのはただ人の繋がりや集まりというだけではありません。

コミュニティというのは、共通するイメージ約束事を共有している人達。

前回の 僕らが守りたいのは地域じゃなくて、自分のアイデンティティだろう も踏まえて言うと、その上アイデンティティも共有していることが重要なポイントです。

意味不明かもしれないから例を出すけど、例えば初詣で神社に集まる人たちのことをコミュニティとは呼びませんよね?

何故かというと、そこにアイデンティティがないから。「列の並び方」とか「お参りをする」ってイメージや約束事を共有はしているけど、アイデンティティがない。

一お客さんとして来ているとき、その「場」にいる自分に誇りじゃないけど、自分はこうで、自分が自分である理由がここにあるんだ!みたいなこと考えませんよね?初詣に来ない私なんて私じゃないって考える人ってそんないないはずなのです。

なんなら個性を最大限に薄めた結果が「お客さん」だったりします。群衆の一かけらになる快感すらあります。

もしかしたら初詣に命を懸けるハツモウディストみたいな存在がいて、そのうち雑誌とかで「毎日が新年!ハツモウディストってなんだ!?」みたいな特集されて、へえ、全国に30人もいるんだね、ってことになったら、「ハツモウディストの定義」みたいなのが生まれて、世に認知されるようになったら、「ハツモウディスト」にはそりゃアイデンティティが芽生えるでしょう。自分たちはそこらの参拝客とは違うんだぞって部分です。

このとき、数万の参拝客の中に潜んでいるハツモウディストは他とは全く違う存在で、独自の概念を持ち合わせたコミュニティ集団なのです。

私の地域、私の町は一個のコミュニティに違いない。なぜなら、アイデンティティがある集団だから。

余計なこと書いちゃったけど、地域の話題に戻らせてもらえば、地域がコミュニティ足り得るのは、生まれ育った○○町や、今仕事で活躍している○○町に、一定のイメージと、最低限のルールと、アイデンティティが備わっているからです。

だってそこで暮らしていて、その地域で起こったこと、会った人、知ったこと、感じたことが、自分の一部じゃないなんてありえないから。

この地域がなければ今の自分はいないと言っても言い過ぎじゃないほど、「住んでいる地域」っていうのはアイデンティティを育んでしまうものだと思うのです。

愛郷心って言うけど、本当に好きなのは地域じゃなくて、自分だよねということ。大切な自分を育んでくれた場所が自分のことのように大切なんだよね。

自分が好きであれば、少なくとも「好きな自分の材料」である生まれ育った地域だって好きになるだろう。

コミュニティに必要な概念の内訳/イメージ、ルール、アイデンティティ(完)

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