1万字あればできること

自分で考える創作論

小説を書きながら、こんなことを考えることがある。

この小説を読む人は、どんな状況でこれを読むんだろう?

ネット上で公開している小説は、どれも1万字前後で納めると決めています。

一万字程度ならおそらく読むのにかかる所要時間は10分~15分程度のものだろうと思います。

誰しも生活の中で、10分~15分の空白が生まれることはあるはず。

例えば、習い事にでも行っている子どもや奥さんのお迎えに駅まで向かうも若干早く着きすぎてしまったとき、車の中でいじれるものは手元のスマホくらいしかないという状況。

例えば、話し相手がいない故に一人だけ昼食を早く食べ終わってしまったが、話し相手がいない故に手元のデバイスをなんとはなしにいじることくらいしか時間を潰す方法が見つからないという状況。

例えば、眠るのがもったいない連休が始まる金曜の深夜、頭は眠いけど目は冴えてるみたいなちぐはぐな夜。買ったまま手をつけていない本をこんなときにこそ読めば良いと思いつつ、ヘッドランプをつけるのは面倒だという状況。

例えば、まだやるべきことはあるのに猫が膝の上で居眠りを初めてしまい、ああまあいいか別にちょっとくらいゆっくりしてもと考える時間。でも猫と同じように生きてたらダメになるから、これを読み終わったらこの子を脇に避けて立つのだと決める、そんな状況。

例えば移動時間。電車や地下鉄ではもちろんだけど、特にタクシーに乗ったとき。運転手に行先を告げたら、これ以上会話するのは勘弁という意思表示をするべくデバイスを取り出すも、自分の態度の冷たさも気になるので、自分の罪悪感を誤魔化す気休めにしかならないけど、ある程度本当に集中できるテキストが欲しいという状況。

激しい腹痛でトイレに駆け込むもなかなかすっきりとは排せつ出来ず、足元は冷たいのに身体は熱くて、これもしかして食中毒なんじゃ…って不安になりながら過ごさなきゃならないとき。

好きなテレビが始まる前のニュースにどうしても興味が持てないとき。

手持無沙汰の15分について、無限に考えることができる。

きっと人生の歴史には残らないような15分を僕らは一日に何度も経験していて、あってもなくても良い時間のようでありながら、そういう間隙にこそ人間の好みは表れると思います。

15分あったら何をしよう。

今は暇を潰す手段は腐るほどあるし、言うほどみんな暇じゃないのかもしれません。

改めて何をしようと考えるような人もいないかもしれない。

15分あったら英単語を覚えたり、刺激になるようなインタビュー記事を読んだり、啓発本を読んだりと有意義なことをする人もいるだろう。

ひたすら無心に手を動かすスマホゲームに勤しむ人もいると思う。

だけど中には、不意に訪れた15分で、取り立てて得をしようとも思わないけれど、ただ時間を潰すだけのことをするのは苦手だという人もいて、気軽に読める小説を選ぶ人もいるはず。

さらにその中の何人かには、僕の小説を読んでくれる人もいるかもしれない。

ネット上で読める作品はやはり腐るほどあって、その中から僕の書いたものを読む機会があるい人なんて何人くらいいるんだろう。

誰かの15分で読める分量の中に、じゃがいも詰め放題の袋に無理やりじゃがいもを突っ込むみたいにして、「ある人間」の話を詰め込みます。

その理由はまず何より僕に書く欲があるからで、次に、それを読んでほしいと思っているから。

僕は人のことを考えて書いているわけではなく、サービス精神みたいなものも多分そんなに持っていないけど、何時間かかけて「ある人間」のことを考えて、「ある人間」のことを書く僕は人間が好きだ人間が好きだって思う。

その人はとりたてて合理的でもなく、かと言って感情的とも言えず、欲があったりなかったりして、多くは間違いだらけで、たまにびっくりするくらいうまくいくことがあって、優しいけど情けない普通の人間。

ままならない人生を送りながら、自分のことばっかり考えているから、自分の好きな人のことばっかり考えてしまう。仕方なく生きていたり、惰性でやりたくもないことをやっていたり、新しい展開にわくわくしていたりする。

そんな「ある人間」のことを1万字の中に詰め込んで、現実に生きる誰かの15分に割り込むことができると考えると僕は楽しい。

僕の楽しい気持ちを誰かが受け取ってくれると嬉しい。そして誰かの15分が良い感じで過ぎれば尚良い。

1万字あれば、できること。(完)

 

 

 

 

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