「自分の意見を持たない」という個性が面白くする社会。/僕らが「普通」なのはなぜだろう。

僕らは今、個人レベルでも、多分市町村とかって地域レベルでも「個性」を強く求めているのだと思う。

でも、よく考えてみれば「個性」って与えられるような気もします。

だって僕たちはもともと全然違うものなのだから、考えるまでもなく「個性」は持ってる。みんな生粋のオリジナルと思って良い。

大勢の中から選ばれる特別になりたいとか、代わりのいない存在になりたいとか、経営戦略上の個性なのか、アイデンティティを守るための個性なのかみたいな思惑は色々とバリエーションがあるんだろうけど、結局どちらにしても個性が他者に認められるものであることに違いはないです。

じゃあ、その「個性を認める他者」って一体誰なんでしょう?

この記事では、「誰かに個性を与える人間の資質」について、ある仮説を考えてみたいと思います。

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僕らのキャラクターは期待によって形作られている

「個性」が欲しいと思ってる人が実際どれくらいいるのかは分からないけれど、競争と協調が入り混じったムードが漂う「社会」の中にいれば、少なからず自分のオリジナリティとか存在意義に疑問を持つ瞬間はあるものなのではないでしょうか。

そんなとき、役割を与えてくれる人の存在はとてもありがたいものです。

それは分かりやすく言えば、あなたに「期待」をする人なのではないかと思います。

期待は良いものだけとは限りません。

例えば、「あいつはまたミスをするんじゃないか」とか、「どうせあいつは分からないだろう」とか、単純にその人をどう見ているかということはすべて期待。

相手がそう振る舞うことを頭のどこかで待っていて、そのように相手を認めている。そういうキャラクターだと認めているということだからです。

また、あのひとは「いつも自信満々だ」とか「自分のことしか考えない」と言ったような、状況によって良くも悪くも判断できる類の期待もあるでしょう。

何にせよ、誰かにキャラクター付けをするという行為は「期待」と言って良い。

現実と虚構の世界における「期待」のかけかたの違い

現実と虚構の大きな違いは、人に対する「期待」における中立性です。

こう言うと分かりにくいかもしれないけれど、ドラマとか映画とかアニメの中に「自分のことしか考えない」キャラクターがいたとしても、社会でそう評価されるよりずっと好意的に見られるものなのではないでしょうか。

同じように「超合理主義で冷徹な上司」とか、「まったく常識に欠ける姉」とかなんでもいいけど、社会的にはとても上手に生きていけないだろうなと思われるキャラクターでさえ、創作の上では難なく生きている。

それどころか、もしかしたらすごく好意的に、積極的に「期待」された個性であることすらあるでしょう。

なぜかというと、創作上のキャラクターと現実の僕らの間に利害関係が何もないからです。

「まったく常識に欠ける姉」が現実にいたらすごく迷惑だろうけど、例えばアニメやドラマの中にそういう姉がいたとしても、見ている僕らはとくに困らない。どころか、トラブルメーカーである姉の存在が、創作上とても重要で、姉がいなければ話が始まらないと言っても過言ではない、なんてことがある。

利害関係でのキャラクター付けと、個性の偏り

現実の僕らが個性を持ちにくいのは、現実に生きる誰もがみんな「利害関係」でなりたっているからです。個性に対する期待値が乏しいとも言えるかもしれません。

たいてい突き抜けた個性というものは迷惑なものなのだと思います。

だからこそ、僕らは大人になるにつれて、社会を意識するようになるにつれて、平均化していく。

突き抜けないことこそがもっとも無難な自他の利害を守る手段なのです。

しかしそれも「社会」というフィールドに立ったときの話。

もっと小さなコミュニティの中では、僕らはもう少し個性的になれます。

例えば利害を超えた関係である家族の前では僕らはかなり個性的でしょう。取り繕う必要のない、気の置けない仲間たちの間ではとても個性的でしょう。しかしその個性が社会で発揮できるとは限らない。

社会では何事もプラスかマイナスかの評価をされ、実際、僕らの人生に面白さを加える個性だとしても、誰かに害を成す個性であれば引っ込めざるを得ない。

そんな、僕らを抑圧する社会というフィールドの中で、自分の個性を発揮するのは大変な胆力が必要でしょう。

その中で、あなたに適切な役割を与えてくれる誰かの存在はとてもありがたいものです。

個性を与える人間は、中立でいられる人が望ましい

「役割を与える誰か」は、中立である方が良いと思います。

僕らは誰でも自分勝手で、自分の利害を計算して、相手を都合の良いようにキャラクター付けするものです。

大人しいよね、優しいね、悩みとかなさそうだよね、気が利くね、などなど、何気なく口にするキャラクター付けの言葉によって、その人を縛ることになる。

それがもし的外れであれば、当然その呪いは窮屈なものになるでしょう。

だからこそ、役割を与える人は利害を持たない「中立」である方が、正確である可能性が高い。

そして、どのコミュニティにも、そんな中立的な、自分の利害を超えて他人を観察し、その場に適したキャラクターを他人に与えることのできる、創作者の資質を持った人がいるものなのではないでしょう。

僕らがアニメのキャラクターのように個性的になれないとき、この中立的な視点を持った誰かの存在が欠けているのかもしれません。

「自分」を持っていない人がこれからの社会を面白くする

まちづくりとかコミュニティ作りを考える上で僕はこの役割に憧れていて、中立的な、創作者としての資質を持った、ある意味物語の方向性を支配する人物になりたいと考えています。

誰もがこんな人物になる必要はないし、いつもその中立の役割を担う必要はないでしょう。

各コミュニティに一人、もしくは規模に合わせて複数人という感じでいれば良いと思う。

そんな人がいるだけで、構成員の個性は守られ、ストーリー(人生)は面白みを増し、結果的にコミュニティの満足度は上がる。

それならば、その「中立的な視点を持った」というものが、まずもっとも積極的に認めなければならない個性なんじゃないでしょうか。

社会においては、「自分を持っている」ことが持て囃される傾向にあると思います。

自分の意見を持って、自主的に、そして個性的に生きる人が、社会的で無責任な「期待」の目で見つめられる傾向にある。そしてそんな期待をかけられた人物はそのように振る舞う。

しかし、ありきたりな期待はありきたりな個性しか作らない、とすれば、そんな利害を超えて、もっとバリエーション豊かな「面白み」を作る、中立的な、自分を消すことのできる人間がいた方が良いのだと思う。

言い方を変えれば、「自分を持たない」「意見を持たない」「自主性のない」という資質を持った人間。

そういう人たちが、コミュニティを、ひいては社会を面白くしていくのではないかと僕は期待しています。

「自分の意見を持たない」という個性が面白くする社会。/僕らが「普通」なのはなぜだろう。(完)

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