勉強をする意味を考えて何になる。

高校時代、僕は数学の劣等生だった。

数学は僕には難しいし興味もなかったけど、当時の数学の先生のセリフでとても印象に残っているものがある。

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高校2年、数学の時間

授業の内容は覚えていない。

先生の言っていることはひとつも理解できない域に達していて、グラフだか図表だか分からないけどただなんとなく先生の正確なチョークさばきに見とれていた。

そして何かを書き終わり、何らかの説明をして、それからおもむろに、「な?美しいだろ?」と言った。

先生の書く数字もグラフも確かに美しかった。

歪みのない曲線、印字したような数字は消すのももったいない。

しかし、先生が言った「美しい」の意味は分からない。

僕は数学が分からないからだ。

勉強の面白さを知るには、勉強するしかない

考えてみれば、物事に対して一定の理解を越えた人たちはよく、「美しい」とか「きれい」という言葉を使う気がする。

学問はあるラインから急に芸術の色を帯び始め、今までただの道具だったものが一変して世界の理の一部となる。

物事は知れば知る程秩序だっていて、それは既に人智を超えた神様の所業で、あらかじめ決められた法則であることを知る。

汗かいてべそかいて辿り着いた正しさが、実は最初から決まりきっていたことで、人が考えようと考えまいともともと「ある」ということを知れば、そうか、人間はこれを見て美しく感じるように設定されているのだ、と感じる。

化物語シリーズの『終物語(上)』にもこのような描写があったので補足で引用を。

数学史上もっとも美しい式と言われるオイラーの等式を引き合いに出した上で…

面白いのは――もとい、美しいのは、この公式が『決まっていた』という点だ。テストに出る要点があるとするなら、そこだ。つまりオイラーの公式は人類にとって、発想の産物ではなく発掘の産物であり、仮に世界に人類が存在しなくとも、自然対数の底を、円周率を、虚数を、1を、0を、考えるおつむがひとつたりなかったとしても、それでも自然対数の底の円周率×虚数乗に1を足せば、0になっていたということだ。

人間も完成された自然物であるがゆえに、完成したもの、しっくりくるものに触れると無性に気持ちよく感じるものなのだと思う。

そう考えれば、学問とは世界を肯定するための道程であり、綺麗なものを見るための手段だ。

本来とても綺麗であるものに囲まれて、それを見続けることが出来れば、同じく完成された自然物であるはずの人の心が荒むはずがない。

だから、勉強はする必要がある。

だけど、例えば勉強ってどうしてするの?と聞く子供がいたとして、こんな話をしたところで納得するはずがない。

その子供は勉強する理由が知りたいのではなく、勉強したくないからこんなことを聞くのだと思う。

つまり、まだ無知であるが故に勉強はしなくとも感覚で世界は美しいと感じている(だから勉強の必要がない)か、無知であるが故に勉強の面白さが分からず目の前の苦痛から逃れたいのか。

前者だとしたら釈迦に説法だし、後者だとしたら理由に意味はない。

だから、勉強をする意味を考えても仕方ない。

勉強をする意味を知るには、勉強をするしかないのだ。

美しさを見つけるために勉強しろ

こう書くとまるで僕が学問を修めた人間のようだけど、そんなことはない。

一応大学は出ているのだから本当は学問を修めたって言わなければいけないんだろうけど、数学どころか簡単な算数も苦手なままだし(オイラーの等式だって名前は知ってたけど中身はよく分からない)、得意な分野であるはずの文系の方面に関しても人より詳しいワケではない。

だけど、高校時代の数学の先生は、自分には美しいものが見えている、数学が分からない奴は知ることのない美しさがあるというヒントはくれたのだ。

大学の各講師も学問のために学問をしているような人ばかりだったから、内容は全く覚えていないけど、僕は良い教育を受けたと考えて良いのかもしれないと思った。

例えば本を読む意味だって本を読んでいる内になんとなく分かってくるものだと思う。

ある文章を無性に美しく感じることがあって、その文章の美しさが高校時代の僕では分からなかっただろうとか、普段本を読む習慣がない人はこの美しさや感動が一生分からないんだろうと思うと変な優越感もある。

僕はその類の喪失を数学やその他たくさんの分野で犯しているに違いない。

綺麗なはずのものに全く気付かず、圧倒的な才能や芸術や技術が無条件に与えてくれる感動や決まり事におんぶにだっこ状態で、ほとんど何も見えないまま暮らしているに違いない。

だから、やっぱり思う。

答えを知っているからと言って、意味を知っているからと言って、見つけられるものはたかが知れている。

学問においては、答えや意味ではなく、教師の学ぶ姿、気付く姿の方が心に残るのではないか。それを手がかり足掛かりに、羨み真似ることで身に付けた学問の方がタメになるのではないか。

息をするように学び、美しさを見出し、あらゆることを肯定できるようになったら、きっと自分のことも肯定できる子供になる。

勉強は、良い大学に入るためでも人より多くお金をもらうためでもなく、世界を肯定するための手段だ。

そんな肯定された世界で生きる子供が不幸せになる訳がない。

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