「あそこなら正しい評価をしてくれる」と思える場所に僕らは帰る/獲物を見せにくる猫のような人

猫はネズミを獲ってくれないと困るから、猫が枕元にネズミをくわえてきたら褒めてやらないといけない。

昔、祖母からそんな話を聞いたような気がします。

今の時代ではネズミ獲りの役割をおっている猫は珍しいと思うし、実際に猫がネズミを追っかける場面になんてなかなか出くわさないけど、猫が心なしか誇らしげな顔でネズミをくわえてくる様子は簡単に脳内再生できる。

一度うちの猫は蛇をくわえて来たことがあって、そのときはすごく叱ってしまったけど今考えたらかわいそうなことをしたと祖母は言っていました。

当然褒められると思って意気揚々といつもより大きな獲物を運んで行ったのにめっちゃくちゃ怒られたってかわいそう。

褒めたらじゃんじゃん蛇獲ってくるから褒める訳にもいかないだろうけど傷ついた猫の顔想像するとかわいそう。

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褒められたい、めっちゃ褒められたい

猫のような人がいる、というか、人は猫のようなところがあるなと思います。

自分で獲った獲物は誰かに見せたくなる。

人間もそこのところは猫と同じようなものだと思うから、「帰る動機」って戦利品を持ちかえるくらいのものなのではないか。

「獲物」とか「戦利品」いうのは少し大袈裟だけど、例えば自分で作ったものだとか、見つけたものだとか、思いついたこととか、ほんの些細な手柄のようなもの全般、子供みたいだけど結局いくつになっても誰かに見てもらわないと気がすまないものなのではないでしょうか。

子供の頃はもっぱら親に何でもかんでも見せていたと思います。

絵を描いては見せ、何か作っては見せ、何か拾っては見せ。

もちろん褒められることを期待して見せるんだけど、たまには蛇を拾ってきた猫のようにこっぴどく叱られることもあったと思います。

大人になってからはまさかいちいち親に見せるようなことはしないかもしれません。

きっといつの頃からか、親に褒められるより友達に褒められた方が嬉しいし、友達に褒められるより赤の他人から褒められる方が嬉しいってことに気付くのではないですか。

だって親の評価めっちゃ甘いもん。子供のうちは良いけど、だんだん当てにならなくなる。

それなら友達の方が評価がカラい。それでもまだまだ甘い。

赤の他人だったら人間性とかそういう先入観みたいなものがない評価だからかなり厳格。

だから極端なことを言えば親に認められなくても赤の他人が認めてくれればそれでオーケーさという風に、成長するに従って自然になっていくのかなと。

欲求はどんどん大きくなっていくものだけど、立派に社会で役に立つ人間になるプロセスも所詮はより高次の欲求を満たそうとした結果で、人間の業のなせるワザなんだなと思いました。

評価の信頼度に逆転現象が起こること

自分の獲物や戦利品を誰かに見せたいという欲求がまずある。

見せたいのは何故かって言うと、褒められたい認められたいからに違いない。

褒められたいって言うのをかっこよく「承認欲求」って言っても良いんだろうけど、いくつになってもどんだけ立派なことをしても平たく言うと「褒められたい」のでしょう。

刺激にはどんどん慣れていくから、だんだん親じゃなくて他人に評価されたくなって、それも赤の他人から褒められたくなってっていう風に人は人間的に出世していく、と。

この流れでふと考えたことがあって、人間一旦行くところまで行ったら結局また自分の親とかに自分の手柄を見せたくなったりするもんなんじゃないだろうか。

世間の評価が飽和状態になったら次はまた親の評価が気になって、世間ではなかなか良い評価をもらってるけど結局おやじに褒められないと俺はまだまだだみたいな心境になるんじゃないか。

まあでも特に男子って「師匠」とかって存在が大好き(少年漫画とかだと確実に出てくるよね)だから、そういうキャラクターとしての「オヤジ」って側面があることは否めないけど。

僕は『るろ剣』の剣心の師匠とか好きです。比古清十郎。懐かしい。
作中では序盤からヒーローとして十分な強さを誇る剣心ですが、実はまだ奥義を会得してなくて、師匠に会いに行くみたいな話があった。

比古清十郎

『るろうに剣心』第十一巻15pより抜粋↑

え、剣心に師匠いたの!?剣心を雑魚扱いってどれだけ強いの?みたいなワクワク感があったものです。

だから例えばスポーツ選手とかが「オヤジに褒められるのがやっぱ今でも一番うれしいですね」とかって言うのもやらしい話で、わりとみんなは囃し立ててくれるけどやっぱ僕のダメなところとか知ってるオヤジの評価が一番気になる、って言うのは、それを聞いて「やっぱこの人も下手だった時代とかあったんだな」とか、「勝手にうまくなったわけじゃなくて相応の努力をした人なんだな」とか、「この人に初めに教えたお父さんもやっぱりすごい人なのかな」っていうプラスアルファの評価を期待しての発言だよな、って思う。

欲求は底知れなくて、人はあの手この手で褒めてもらおうとする。いやらしい話ではあるけれど、そうじゃないと向上できないよなとも思う。

行ったり来たりしてたくさん褒められる人生を作る

師匠的な存在の代表である「オヤジ」の存在を匂わせるのも高まる欲求の発露だと言えばなんたる強欲!と思うかもしれないけど、ちょっと違った見方もあります。

だんだん世間の評価の方が信じられなくなってきて、あれ、この評価ってホントなのかな、実際のところどうなんだろう…って思ったときに親の顔はポンと浮かんできたりするのがそうでしょう。

だって、世間一般の大勢の人は、結局本当の意味で俺に興味ないからこそこんなに手放しで自分を評価してくれる訳でしょ?

よく考えたら、同じ褒めるにしても心から褒めているのは親で、他の人って何も考えずに、特に吟味せずに褒めてるようなものじゃん。

褒め言葉の大安売りみたいなことが起きてるわけじゃん。それもまた社会じゃん。

単純にfacebookで友達にいいね!押されても別に普通だけど、親にいいね!押されたらびっくりすると思う。それほどのことした!?って。

いやfacebookが社会の縮図だとか言ってる訳じゃありませんし、そういうSNS上の評価が当てにならないと言っている訳でもありません。

ただ、社会の評価の上に自分の人生があることが当たり前になったとき、評価の基準に逆転現象が起きて、親の評価が最大価値になる瞬間もあるんじゃないかなと。

で、その瞬間ってのが結婚とか出産とかって言う節目だったり、仕事で成功したときとか反対に躓いたときとか、自分の存在価値とかが揺らいでしまったときとか、こうやって数えていけば人生のそりゃもう至る場面で「信頼できる評価が欲しい場面」ってのはあるものだと思います。

帰る動機って色々あると思うけど、「ちゃんと褒められたい」、「ちゃんと認められたい」って気持ちが主だと言って良いのではないか。

大人になっても歳とっても、猫が獲物の首根っこくわえて自慢げに見せに来るって構図は変わらないのではないでしょうか。

さぞ褒められるだろう、驚かれるだろうって期待がちょっとあって、気付かないうちにほんのりドヤ顔になってる。

持って来るもんが昔は小さいネズミだったけど、今は普通にカンガルーとか持ってこれるようになってる。

「そんなんどっから持ってきた!!…の、かはなんとなく分かるけど、どうやって持ってきたの!?」って言ってる顔が目に浮かんでる。

アナコンダとか捕まえてきちゃって、いい年してそんなん持ってくんな!!って怒られて、やべえ間違えたって思うかもしれない。叱られるのもまた一興。

みんな褒めてくれるしスゲーって言ってくれるんだけどぶっちゃけこんなん謙遜とか何でもなく全然すごくないと思うんだけど…って持ってきたモルモットを親に見せたら案の定リアクション薄くて、あ、やっぱそうですよねって安心するかも。

大きいネズミだねえくらいは言ってくれるかもだけど、いやこれモルモットって言って都会では結構人気で…って話しても「ああそう」みたいな顔されてあ、やっぱそうですよね。やっぱこっちの評価が正しいと自分でも思うわ、って自分を見失わずに済む。

反対に、ずっと故郷にいたら認められない価値ってのもあって、やっぱ田舎はダメだな年寄りはダメだなと思う瞬間もあるでしょう。

そういうときはまた社会的な評価とかツイッタ―上の赤の他人の評価の方を信頼したりして。

思うに、わざわざ帰る場所というのは「正しい評価をしてくれる(と自分が思える)場所」なのではないかと思います。

そこは親がいる自分の故郷でも良いし、理解してくれる仲間がいる場所でも良いし、文明に侵されていない純粋な場所でも、もちろんSNS上でもどこでも良いんだけど、自分の価値観や自己評価もゆらぐものだと思うから、そのゆらぎに合わせて自分が「帰りたい、あそこならちゃんと自分を見てくれるだろう」と思える場所はいくつあっても良いと思う。

認められたいという欲求にキリはなく、自分だっていつも自分を理解している訳でも信頼している訳でもなく、第三者の評価が欲しいけどすべて鵜呑みできる訳でもないという不安定さがあるのが当たり前。

人の気持ちは行ったり来たりが当たり前です。
だから一所に留まるのではなく、あっちこっちに帰れる場所があると納得できる形で褒められることが増えて良いよね、というお話でした。

 「あそこなら正しい評価をしてくれる」と思える場所に僕らは帰る/獲物を見せにくる猫のような人(完)

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