ほんとに自分が嫌になる!僕たちが自己嫌悪に陥るのはなぜか。

多分僕は、本当の意味で自己嫌悪に陥ったことはありません。

しかし些細な自己嫌悪ならば、毎日のように経験しています。

例えば、文章を書くのに疲れたから15分だけ仮眠を取ろうと思っていたのに、電気もパソコンもつけっぱなしで3時間も寝てたとき。

いやそもそもそれ以前に思っていたように文章が書けなくて疲れてしまうとき。

ジャンクフードをお腹いっぱいに食べてしまったとき。

気付いたら読んでる本の内容が全然頭に入っていなかったとき。

自分の至らなさを人のせいにしてしまったとき。

挙げだすとキリがありませんし、この程度のことであれば毎日のように経験しています。

リストにしたら100個くらいはすぐに挙げられそう。

うわまたやっちまった…ってことばっかりだし、ほんとダメだな俺は…って思うことばっかり。

これは蓄積するとなかなか辛いものがあります。

みんな少なからずそんな感じだろうと信じた上でこの記事を書くんだけど、僕たちがこんなに自己嫌悪に陥って自分を苦しめてしまうのはなぜなのでしょう。

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本当の意味での自己嫌悪と、自分を信じてる人の自己嫌悪

ところで、「本当の意味で自己嫌悪に陥ったことはない」って冒頭に書いたんだけど、本当の意味での自己嫌悪って何でしょうか。

それは文字通り、自分のことが嫌いになっちゃうレベルの事態だと思います。

僕は毎日のように自分のダメなところを目の当たりにして「うわぁ」って思ってるけど、毎日うわぁって思えるのは「何だかんだ自分のことを許しているから」に他なりません。

本当に自己嫌悪に陥って、心から自分のことが嫌いになったら、逆にもう些細なことじゃ気にならないでしょう。どうせ俺だしみたいな。

そういう事態ってきっと本当に取返しのつかないレベルのことをやらかしてしまったときくらいで、普通の生活の中で少々しっかりしていなかったくらいではみんな自分のことを嫌いになったりしません。

自分の中にある「正しい自分像」とか「自分はこうあるべき」っていう基準があって、そこからちょっとそれただけで「何やってんだ俺」てことになるのであれば、結局のところそういう「本来こうあるべき自分」を信じていることになりますよね。

マジで自分のことが嫌いならそんなに簡単に自己嫌悪に陥ることはないです。

僕らがみんな持ってるチェックシートが自己嫌悪を作る

ここから更に「自己嫌悪に陥る状態」について穿ったことを考えていきたい。

「自分はこうあるべき」って基準が少なからずみんなにあるとして、その基準からはずれたものに僕らはこう、チェックマーク的なものを日々マメにつけて、ダメ、ダメ、ダメってやってるとしましょう。

ここで自分に甘いか、自分に厳しいかっていう違いが浮彫になってくると思うけど、自己嫌悪に陥りやすい人は自分に厳しい側の人間ということになります。

例えば禁煙しようと思ったのに一週間経たないうちに失敗したというとき、自己嫌悪に陥るか、まあいいでしょうって思えるかは人によって違う。

このとき、客観的に見れば、その人は「禁煙に失敗した」だけです。

ここに評価をくだすとき、自分に×をつけるか、○をつけるかは人によって違って、日常においては、絶対的な×なんてほとんどないんじゃないかって思う。

だってそんなの捉えようだから。

評価する癖を止めれば自己嫌悪もなくなる?

例えば僕の場合、ちょっと寝るつもりが数時間寝入っていたってことはよくあるんだけど、このとき自己嫌悪に陥るかどうかなんて僕のさじ加減一つです。

「うわあ何やってんだよ俺。もう外真っ暗じゃん、あ電気もつけっぱなしだし、最悪だよ」って考えることもできる。

「うわあ疲れてたんだなー、よく寝てすっきりした」って考えることもできる。

誤解があったら正しておきたいんだけど、僕はこの記事で自己嫌悪に陥っている人を慰めようと思っている訳ではありません。

「自己嫌悪に陥りやすいなら、そういうときこそプラス思考に頭を働かせて、自分を肯定してあげた方が精神衛生上ずっと良いよ」って言うのは簡単なんだけど、ここが前回の

文明社会の独善的な僕ら/バカにされる優等生とそうじゃない優等生

と掠る部分で、だから、僕らそんな無理やりに「自分を良しとする」必要ってあるのかなってことを言いたいのです。

もっと言えば、○とか×とかじゃなくて、僕らは「あらゆることを評価する」って習慣を止めてしまえないのだろうかってこと。

(メモ)「評価」するからこそ「意見」なんか持っちゃう訳だし、その意見こそが自分そのもので、その意見で以て自分を正当化しようとするのであれば、自分を認めることは自分を認めてもらうことと同義になり、よって、逆説的に「自分が自分であるために自分らしく生きる」というのは困難。

元気がないより元気があった方が良いと思い込んでいる(健康面ではなく印象の話)

あらゆることを評価するっていう習慣を止める。

あらゆることは評価するまでもないことだということだと思います。

例えば、色に僕らは評価を下しません。

赤も青も黄色も緑も黒も白もあるけれど、それぞれが絶対的な存在です。

黒よりも白の方が絶対に良い。あらゆるものが白に近づくに越したことないなんてことにはなりません。

赤とピンクだったらピンクの方がいくらか白に近いからピンクの方が上なんて話にはならない。

何言ってんだ当たり前だって思われるかもしれないけれど、僕が最近抱いている違和感は僕らが日々このような判断をしてるんじゃないかってことです。

元気があった方が、元気がないより良いと思い込んでいて、元気になろうとしているんじゃないか(健康の話ではなく、印象の話)。

小さなことで落ち込むより、小さなことで落ち込まない方が良いと思っていて、小さなことで落ち込む自分が嫌になったりするんじゃないか。

禁煙とかダイエットのときとかであれば意志が弱いよりは強い方が良いと思い込んでいて、意志の弱い自分が情けないんじゃないか。

そういう「良いと評価する基準」が本当に自分のオリジナルなのか、ちらちら社会の顔色を窺って何となく思い込まされているものなのかは分からないけれど、いずれにせよ、自分が嫌になっちゃうとき、何らかの基準に照らしあわせた上での「評価」があることは間違いありません。

そういう評価基準がこの文明社会ではあまりにも画一的になってしまっていて、でも自分は自分で、多分正しいも間違ってるもなくて、だからこそ「正しさ」を求める社会とのギャップは開いていき、自己嫌悪が止まらないのかもしれない。

ここまで考えると、過去に書いた

多様なものを多様なままにしておく工夫

って記事にもかぶるところがあるかもしれません。

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