「小さなコミュニティ」が生まれる必然性を考えた。

最近は「コミュニティ」、特に「小さなコミュニティを形成する」の必要性みたいなものを考えてました。

心を守り抜くためのサバイバル環境で僕たちが形成すべき「コミュニティ」について

全然注目されない、小さなコミュニティで、誰も知らない冒険をしよう。

とかその次の記事とかその次の記事とかで。

しかし自分で書いていて、自分に疑問が浮かびます。

これじゃあまるで、自分の価値観を守ることって文明(常識とか経済活動とか)から遠く離れて、社会から逸脱して、それでも生きていけるようにしようと言っているようなのです。

人気者まちづくり論/社会を捨て、町に出よう

なんかは「社会を捨て」って言っちゃってるし。

しかし僕が言いたいのは、多分そうじゃないんだよな、なんかそれじゃ単純すぎる。

むしろ「小さなコミュニティ」を意識するという流れは自然な成り行きだよな、という記事を書きます。長いです。

スポンサーリンク
スポンサードリンク

価値が循環する社会構造

まずこう考えました。

文明社会において、価値があるものってなんでしょう。

それは、「誰かの価値観を満たす」ものであることです。

一方、自分にとっての価値とは何かというと、当然、「自分の価値観を満たす」ものです。

「誰かの価値観を満たすもの」を生み出す人がいて、「自分の価値観を満たす」人がそれを採用する。

誰かの価値観を満たした人は報酬、ご褒美、対価を貰えて、それで今度は自分の価値観を満たすことができる。

そういう風に社会は回っている。

螺旋を描きながら前進する僕らの文明社会

しかも社会は、螺旋を描きながら前進、もしくは向上していきます。

誰もが他人の価値観を満たすために働き、誰もが自分の価値観を満たすために消費するという円滑な流れは、必ず発展の形をしているのです。

何故なら、と説明するまでもないかもしれませんが、誰かの価値観を満たすということは誰かにとっての要望や理想を叶えることだから。みんなが誰かの理想を叶え合い続けているのだから、向上しない訳がありません。

そしてこの文明社会においては「最低限生きるために必要なこと」という段階の要望はとうに叶え終わっていて、それぞれが「より良く生きるため」に必要なことを叶え合う時代に突入して久しいのではないでしょうか。

みんながみんな常により良く生きようと考えていて、それに応える何かが発明されるのだから、僕らの社会は常に発展していきます。

そしてこの円滑な循環に必要不可欠なものが、何にでも交換可能な、どんな価値観の上でも普遍的な価値を維持できる「お金」というものなのでしょう。

文明社会は生み出すべきものがない飽和状態に陥る

もしかしたら最近の記事を読んでくれた人の中には、僕がお金稼ぎをあまり好ましく思ってない人だと思われているかもしれません。人生はお金じゃねえんだよ的な。

もしそうならそれは誤解で、お金は上記のような理由から素晴らしい発明だと思ってるし、便利だし、必要だと思っています。

感情的なことを言えば、お金はあると嬉しいし、ないと心細い。世の中は金だとも思ってないし、世の中は金じゃないとも思ってない。世の中には金という便利な道具があると思っています。

さて、その「お金」で以て人々の価値観が循環している社会においては、必ずどこかで飽和状態になります。

一般的に「多くの人の要望や理想」を叶えた人にはそれだけの報酬が舞い込みますが、多くの人の要望を叶えるということはそれだけ普遍的だということであって、一般的だということであって、「こだわり」との間には大きな壁が生まれます。

乱暴な言い方をすれば、たとえ一時は画期的なものであったとしても、多くの人に認められれば認められるほど「平均である」ということになる。

すると次はさらにそれを越えるもの、そしてそれを越えるものという風に発明を繰り返していけば、自ずと要望を叶えてあげる対象は狭くなっていき、やがては個になっていく。

絶対にどんな人をも満足させる商品

僕らの社会では、多くの人に認められ、受け入れられ、利用されるモノが生み出されていきます。どんな会社だって、一つでも多く売れる大ヒット商品を目指しているはず。そして最大の理想は、人類全員が使うモノを作ることのはず。

そこでちょっと考えてみて欲しいのですが、絶対にどんな人をも満足させられる商品を作る会社ってどんな会社でしょうか。

それは、人類一人ひとりの要望を聞き、オーダーメイドをする会社です。

絶対に誰にでも効果のある薬はどんな薬でしょうか。

それは、人類一人ひとりの体に合わせて作られた薬です。

みんなと同じで大丈夫というのは、良くも悪くも普通だということ、平均であるということ、こだわりがないということ。(いやそのときの最先端や流行りやみんなと同じってのが良いんだという人もいるかもしれないけれど、その点は後で触れます。)

つまり、あくまで机上の空論ではありますが、僕たちの文明社会が行きつくところは完全オーダーメイドの世界です。

でも、完全オーダーメイドの世界がベストというか終着点なら、誰かにそうしてもらうのを待つよりも、それぞれが自分で作った方が早いんじゃない?と思いませんか。

自分で作りたいものは限られている

ここで問題が生じます。

自分で作りたいものって、そんなに多くないということです。

というか大半のものは自分で作りたくなんかないです。

よっぽどこだわるものでない限り、理想とか要望なんてそんなにない。

理想みたいなのはあるけど、どうせそんなセンスないし、誰か作ってよ。あ、もちろんかっこ悪いのは嫌だよ、何となく今のトレンド?っていうか、みんなに羨ましがられるヤツ、良い意味で普通の、今っぽいヤツ。ってなると思いませんか。

でもでも、この世の中のトレンドとか、普遍的なもの、つまり社会という大きなコミュニティで認められたものって、かなり水準が高いです。だって発展しつづける社会で認められたものなのだから。

今一番使ってる人が多いのはiPhoneですかねーって言われるのと一緒。たっか!でもこれが普通なのかーって。じゃあiPhoneで、みたいな。

社会的に認められたものは、こだわる人ももちろん使うし、こだわらない人も使う。だからこそ社会的に認められたということになるんだけど、それを適応するにはそれなりのコストがかかるのです。

人生はお買い物?生き方は流行り?

では、物質的なことから離れて考えてみます。

生きることであればどうでしょうか。人生ももしかしたらお買い物のようなものなのかもしれません。

良い会社入るためにいい大学入って、いい大学入るために良い高校入って、良い高校入るために小学校から塾行って、勉強だけじゃ生き残れないから小さい頃からお稽古してってまるでお買い物です。

今で言えばよく分かんないけどこの社会で生き抜くために海外の情報に敏感になったり、出会いや縁を大切にしたり、自分のメディア作ったり、学生企業したり、色々あるんじゃないでしょうか。

ただ「お金を使う(消費する)」んじゃなくて「行動する(経験や情報を得る)」という点においてお買い物感は乏しいようだけど、手続き的であることに違いはありません。

こんな風に自分たちで「生き方」みたいなのを考える上で、俺生きるセンスないし別になんでもいいや、誰か決めてよ、なんか今っぽいやつって言うでしょうか?

普通の生活が一番高くつく

「生きるセンスないから誰か決めてくれ」なんて言わないよって一瞬思うかもしれないけど、口に出さないだけで思ってますよね?どれが今一番「無難」な生き方なんだろう?って思いませんか。

もちろんこだわる人は最先端の先を見据えた生き方を選ぶんだけど、別によく考えてないけどみんなと一緒が良いって人も同じような生き方を選ぶことになります(多分後者の人たちを意識高い系って言うんだろうな。そしてこれが都会に人が多い理由だろうな)。

でも現代の意識高い系学生をバカになんかできなくて、多分僕ら世代(20代後半~)の多くの人は「みんな大学行くし大学行く」って感じでしたよね?別に意識高かった訳じゃないあたり救いようがないけど、大学行くのが普通というか一番無難な「生き方」だと思ってたに違いない。

僕はそう。

そして普通の生き方について回る「普通の選択の数々」は、どれも高くつきます。

普通に大学行くの高いでしょう、普通に結婚式挙げるのとか、普通に家建てるのとか、普通に海外旅行行くのとか、全部ハイコスト。普通に生きるのが一番高上り。

高いに決まっています。水準が上がり続ける社会で、もっとも多くの人に認められているサービスなのですから、それだけの労力がかけられていて、それだけの品質で、最先端なのですから。

だからこそ、ここまで成熟した社会において、最低限生きるくらいだったら十分可能であるはずのこの文明社会において、「普通の暮らしができない人」が出てくるのかなと思うのです。

こだわらないことにお金がかかる悔しい

僕らの人生で、コストがかかる領域には2種類あります。

一つは、「とてもこだわる」こと。

もう一つは、「別にこだわらない」こと。

そして僕らの普通の人生においては、別にこだわらないことの方が圧倒的に多い。

例えば、僕で言ったら服とかでしょうか。

僕は衣類はかなり後回しです。同じ服ずっと着てる。でもかっこ悪いのは嫌だし適当に買い替えたりもするのですが、こだわりはあまりないので20代男性が身に付けててもおかしくないであろうと思われるブランドの服を買います。

こだわりの境地はオーダーメイドなんでしょうけどこだわらないからそんなの買わないし、ましてや自分で作るなんてありえない。

金銭的なコストと労力的なコストのバランス

ここで、コストというものを考えたとき、また二つの視点があります。

一つは金銭的なコスト。もう一つは労力としてのコスト。

僕らは自分で労力をかけたくないことに対して、高い金銭的なコストを払って代わりにやってもらっているのです。

僕は服にこだわりはないからお金かけたくないけど、だからって家にある布地で服作れば良いじゃんなんて思わない、自分で作るなんてありえない。めんどくさいし、第一作れないし、ダサいし。労力的なコストがかかりすぎる。

だから普通に普通の高い服を買う(こだわらない僕にとってTシャツ一枚3,500円とか正直納得できない。当たり前に本より高いなんて。でも安いヤツ急にダサいから買わない)

こだわらないって人並み以下で良いってことじゃなくて、人並みで良いってことなんですよねたいてい。

もちろん、僕にとっての服のように、「別にこだわらないこと」の全てに対して平均水準のコストをかけるようなことはしないでしょう。

「別にこだわらないこと」の中から、コストを落とす労力があまりかからないことにかけては、僕たちかなり節約して、自分でできることは自分でしてると思います。バランスの問題です。

「こだわること」ほど力を合わせるべき

この、金銭的なコストと、労力のコストを頭に入れ、忙しい現代社会という背景を合わせて考えると、とても不思議な関係になります。

こだわらないことにばっかりお金がかかり、こだわることはだんだんお金がかからなくなるということ。

だってこだわらないから普通に高いものを買うのです。労力をかければ安く済むのは分かってるけど、面倒だし、そんな時間ないし、買っちゃおうって。一人暮らしの自炊が良い例ですよね多分。

こだわるものの行きつくところはオーダーメイド、そして自作です。これは労力はかかるけどお金はあまりかかりません一般的に。

さてここで、小さなコミュニティ、価値で繋がるコミュニティの大事さが生じてきます。

いくらこだわると言っても、自分で作るには限界があると思いませんか?

服とかならまだいけるかもしれないけど、さすがに家とかになると無理がありますよね?

単純な労力の問題を見ても無理があるのは分かるし、そして悲しいことにセンスや技術の限界もあります。

だからこそ、こだわりたいことは力を合わせる。

同じような価値観を持つ人同士で協力して、手を出し合いながら、口を出し合いながら、「自分たちだけの理想」を作りあげていく。

そして、「このコミュニティの本当の強味」は、こだわらないことに対してもローコストで、少ない労力で成し遂げることができるということなのです。

例えばあまり食事にこだわらないなという人は、こだわらないからこそ内心ではあまり食事にお金も時間もかけたくないと思ってる。だから食材も自作してさらに自炊すればベストなんだけど、その労力をかけるのにも躊躇するほどこだわりがない。

でも疎かにする訳にいかないし、ということになれば、「じゃあみんなで適当に畑やって自分たちの食べる分だけ作ってさ、みんなで鍋すれば良くない?」ってなる。労力を分け合う感じ。

これだと、ローコストで、かつロー労力で普通においしいものが食べられる。

あと車とか、ネット環境とかもシェアできるから最低限文明的な生活は送れる。

僕らの町はすでにもともと「小さなコミュニティ」だ

長くなって申し訳ありませんが、しかしここからが本題です。

じゃあ僕らの町のようなものも「小さなコミュニティ」の形の一つだと考えるとどうでしょう。どんな価値観で繋がってるかは後で話しますが、これまでに書いた「小さなコミュニティが持つ強み」を持つ場です。

そんな町という場は、「小さい」という性質上、自分の人生をこだわって自作しデザインするためのコストが落とせる環境です。

そう考えれば、要求水準の高い社会に認められる必要も特にないことが分かるのではないでしょうか。

また、社会に認められる形を高いコストをかけて適用する必要もないということが分かると思います。

だって、小さなコミュニティの強味は、「こだわらないところを節約し、こだわるところに労力を注ぐということができる」ってことなんだもの。

この成熟した社会、価値の飽和状態間近の文明社会で、次第に求められるようになるのは「一人ひとりの価値観や個性が最大限に発揮できる環境」です。

いやもちろんその価値観が社会的な成功だったり、多くの人の役に立つことだったらそういう場に行くべきで、小さなコミュニティを目指さない人は人生にこだわりがないとは言っていません。小さなコミュニティの強味は「ローコストで」自分の価値観を満たせるってあたりにポイントを置いてます。

自分の人生をオーダーメイドできる土台、そして(自分にとって)余計なことにお金も労力も極力かけずに済み、(自分にとって)大事なことには労力をかけられる土台。

しかし、小さなコミュニティが機能するためには「価値観で繋がる」ということが大事です。それはどんな価値観か。

町は愛郷心で結ばれたコミュニティ

町はそれだけで「小さなコミュニティ」そのものであるのですが、「まちづくり」というだけあって、構成員がこだわりを持って手作りするものです。

ここで、社会に認められる町、社会というコミュニティでお金で換算されてしまう価値を求める町になれば、次第に良くも悪くも普通の町になっていきます。

ある程度人口は増えますし、多くの人に親しまれる都会的な町になるでしょうが、その代わり没個性に陥り、「僕らの町感」は乏しくなります。

だから僕らのまちづくりでは、価値ではなく価値観の発信が大事なんだと思うのです。

地域は価値ではなく価値観を発信しなければ。/オリジナルの価値観で繋がるコミュニティ作り

これはどちらが良いとか言うことではなくてどちらが適しているか、どちらを選ぶかという話ですが、僕の住む町のようなとても小さい町であれば、都会的な先端に行くよりは、一人ひとりの価値観を満たすオーダーメイドな町の方が合っている気がします。

いやだからって町レベルで価値観で繋がるなんてできるのか。

確かに、少人数のコミュニティなら「好きなこと・大事なこと」で固まれる可能性は高いけど、町の規模になると難しいです。

しかし、町には最低限「愛郷心」という共通の価値観があるはずです。生まれ育った町を大事にしたい、そして「愛着のある、好きな町である」という、そして「ここが自分の町である」という誇りのようなものです。そしてそれは人並み・平均で良いものではないはずです。

この価値観で繋がるだけで、町は小さくとも強固なコミュニティになれる。

そしてその中で、さらに細かな価値観で繋がった小さなコミュニティを作ると、さらに盤石です。

※ちなみに、ここで言う「小さなコミュニティ」は既に「趣味のサークル」とか「ママ友」とかとは別の性質のものです。社会と個、どちらに主従があるかという違い。

文明に生きる人々が田舎に求めている形が「小さなコミュニティ」だ

最後です。

ここまで読んでいただけた方は、もしかしたら二つの方向性が見えているかもしれません。

つまり積極的に社会という価値の循環の中に組み込まれる「モノの選び方、生き方、町の作り方」を選ぶ方向と、オーダーメイド的な「モノの選び方、生き方、町の作り方」を選ぶ方向です。

僕が一番協調したいのは、もし後者を選ぶのであれば、「小さなコミュニティ」を意識せざるを得ないのではないかということなのです。協力関係が必須ですからね。

そして社会の価値の行きつく先は完全オーダーメイドなのだから、自然に「価値で繋がる、小さなコミュニティ」が生まれていくものなんじゃないかということ。

で、ここまでの話は何となく両極端に聞こえるかもしれないけれど、多分もう町の規模で、そこが小さいコミュニティなのか、大きいコミュニティなのかってだいたい決まっちゃってるんだから、どの規模のコミュニティを選ぶかってことだと思うんですよね。

小さいコミュニティは小さいコミュニティの強味を磨き、大きいコミュニティは引き続き文明の水準を引き上げ続けるという社会的なミッションを体現しつづけるみたいな。

つまり、文明から少し離れていても自分の手作りの人生を手軽に楽しめる「小さなコミュニティ」という形が、今漠然と田舎に期待されている環境なのではないかと思うのです。

さらに、僕らはどこにいても「社会」から切り離される訳ではありません。小さなコミュニティに属しながら、文明社会という大きなコミュニティにコミットし続けることはもちろん可能。自分のこだわりを追求しつつ、大勢にとっての価値を生みだすというようなこと。

逆に、バリバリ文明社会に接しながら、田舎の小さなコミュニティに関わり、町をつくる構成員の一人になることもWEBの力で可能だと思いますが、地の利の問題で直接生活に関わる協力関係になれないのが残念。

ってことは移住した方が得じゃないかな。どうかな。

「小さなコミュニティ」が生まれる必然性を考えた。(完)

スポンサーリンク
スポンサードリンク