小説を書いているとき「小説なんて誰が読む?」とよく思います。
例えば5年後、10年後、小説を読む人なんかいるのだろうか。
小説が好きで、常に読みかけの本があって、寝る前に数ページだけでも読んだり、旅行のみならずちょっとした移動の際にも思わぬ空白時間ができたときのために必ず小説を持ち歩く僕でさえ、「小説読む意味なんてないよな」と思う。
だから普段小説は読まない、読む機会がないという人はなおさら、小説なんてあってもなくても構わないだろう。
じゃあ、小説を書く意味って?
小説を読む意味がないのだから、小説を書く意味はもっとないだろう。
たまに小説を書きながら虚しくなって、そんなことを考えます。
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小説は役にも立たないしそれほど驚く内容でもない
小説を読むことに意味を見出すことはできます。
集中力が上がるとか知ってる言葉が増えるとか人の気持ちが分かるようになるとか。
しかし、読む価値があるから読むということを認めてしまえば、つまり小説を読む意味を必死で語れば語るほど、読む価値がなくなったら読まなくても良いということになります。
そして現代では、その小説を読む価値がないか、極端に乏しいと思う。
何故なら、何を学ぶにしても小説は効率が悪い。何を身に付けるにしても、小説は時間がかかりすぎる。
また、多くの人が表現者となった今、小説よりもよっぽど劇的な体験をした人の経験を直接ブログなどで読むことができるし、想像もできない恐ろしいことや残酷なことは小説を読むまでもなく世の中に溢れているから。
作り話と分かってることより、現実な分衝撃だったりします。
驚きや好奇心といった感情を満たすコンテンツは世の中に溢れ、作り話が現実を越えるハードルはとても高くなっている。
日本の文芸はライトノベルやアニメが強い
自然に、超常現象や特殊能力を使う発想、異世界や時代を隔てた場所を舞台にした作品が増えると思う。小説の世界では幼い子が世界を救ったり残酷な戦いに巻き込まれたりする。
いわゆるライトノベル的なものの方が、現実の追随を許さないという点でその地位は安泰なのかなと思います。
現実では絶対にありえないことができるというのが微かに残る小説の強味だとしたら、ビジュアル的に鮮やかで見栄えが良いライトノベルの世界は今や日本文学の主流と言っても良いのではないか。
僕はライトノベルを読もうとすると、たいてい人気作はシリーズもので集められる自信が無いので、もっぱらアニメ化したものを楽しんでいます。
ラノベ的な世界観はどこを取ってもリアリティがありません。世界観とか設定は良いとしても、髪の毛の色や目の色がみんな違いすぎるし、外国人みたいな見た目なのにみんな日本語喋るし、ありえない距離感で会話してたりするし、主人公がモテモテだったりする。
いずれも現実感を求めればありえないことですが、そのありえないを鮮やかに表現する手法として、日本のアニメは素晴らしい。そしてアニメ化が前提にある(のかな?)ライトノベルも発想がすごくて驚く。
これまで積み上げてきたアニメ文化が、どんどん表現の幅を広げ、アニメ的な世界を押し広げているのでしょう。
一般小説を書くのは時代遅れなのでは?
さて一般小説。
一般小説とライトノベルの違いをあれこれ言うのは不毛なので置いておくにしても、一般小説を書いているという意識がある人はある程度のリアリティを維持するだろうし、ライトノベルを書こうとする人は意識的にリアリティを無視してビジュアルを重視するでしょう。
架空の人物の物語という大きな括りでいけばこの両者を分ける必要はないと思いますが、両者を無理やり分けて比べるとすれば、一般小説に許された表現はどうしても制限的になってしまうと思う。
小説に求めるものがあるとして、わざわざ一般小説を選んで読む必要があるだろうか。
ましてや書く必要は。
一般のリアリティを越えた驚くべき物語なら、現実の人間が体験談として共有してくれる時代です。
現実を超越した非現実的な物語は、非現実的なビジュアルが許されるライトノベルやアニメの世界が強いです。
一般小説では一体何を楽しめば良いの。小説を書くという行為はまるきり時代遅れなのではないか。
現実の人間が語ることと、架空の人間が語ること
事実は小説よりも奇なりと言いますが、今では小説よりもよっぽど壮絶な人生がブログなどで読むことができます。小説よりもずっと笑える人生経験を読ませてくれる人もいます。
じゃあ小説では何を書けば良いのか。特別人に話して聞かせる特別な経験が無い人間は小説を書くことで何を表現しようと言うのか。
ときどきこんな風に考えますが、そんなとき僕は考えます。
現実の人間のする体験を読むのと、架空の人間のする体験を読むのとでは何が違うんだろう。
このとき、一般小説とライトノベルの区別はしません。
大きな違いは、その物語がどんなものであれ、現実の人間の語ることであれば必ず利害関係が生じるということです。
嫉妬したり、同情したりする対象が自分と同じ現実にいるということ。
例えば、ある人が女の子にモテモテだという実体験を読めば僕は嫉妬するかもしれません。その人がこれ以上モテることに耐えきれないかもしれない。
では小説やアニメの主人公がハーレム状態だというとき、もしくはヒロインとうまくいきそうだというとき、僕たちは本気で嫉妬するでしょうか。むしろその状態を応援したりしませんか。主人公以外の男がライバルとして現れると本気で邪魔に思ったりしませんか。
不思議と、架空の人物の経験は自分事のように感じられるということだと思います。
他人事を自分事にする小説体験
人の経験を物語として聞くのと、架空の物語を読むのとでは大きく違います。
ジェットコースターに乗った感想を聞くのと、ジェットコースターに乗るのとくらい違います。
一方は情報の伝達であり、もう一方はれっきとした自分の体験です。
ブログは(創作の意図がなければ)どこまでも人の経験を伝達してもらってるものですが、小説世界は文字を通して、ストーリーを手繰って、他でもない自分の経験として立ち上がります。
ライトノベルになると、設定が特異なものが多い分どうしても受け身の部分が多くなるから、「小説体験」という意味ではリアリティを維持している一般小説の方に分があるかもしれません。
「他人事を自分事に」という意味では、ブログの文章などのテクニックとして、共感できるようなことを書いて、それがまるで自分のことのようだと思わせる、というものがあるようですが、小説作品では少し感覚が変わるのではないかと思います。
架空の物語を作る場合、共感は手段ではなく、当然の帰結でなければならないのではないか。
つまり、主人公が嬉しいと思ったとき、それを手続き的に理解してもらうのではなく、主人公と同じように嬉しいと感じさせる文章こそが小説表現の目指すものなんじゃないだろうか。
小説の存在価値と僕らの存在価値
小説を読むことにも、ましてや書くことになんか、全然意味はないと思います。
小説に意味や有用性を求めれば、それは小説を読むという体験をしたあなたにそのまま意味や有用性を求めることになる。
だって小説を読むという体験は他ならぬあなたのもので、あなたの人生の一部だから。
そこに意味や意義がないから小説はいらないと言ってしまえば、あなたの人生にも意味や意義がなければ生きている意味はないと言っているのと同じになってしまいます。
僕らの人生にそもそも意味も意義もないし、僕らは役に立つものでも実用的でもなく、仮にそういう一面があったとしても、人生の主成分ではないはずです。
ある人を指してこの人はこういうところが役に立つと言うことはできるかもしれないけど、だからその人が生きている価値がある、なんてことはないですよね。
僕ら全然役に立たなくたって、なんの有用性もなくたって、存在するだけで謎に楽しいポジティブな生命体です。
僕らの人生なんて丸ごと無駄だしあんまり意味のないものだと思うけど、なぜか生きるのは楽しいし、無条件で誰かに生きていてほしいと感じるものではないでしょうか。
そんな不合理でよう分からん「人間」をこれでもかと細かく描くものが、役に立つものであるなんて、なんか存在矛盾ですよね。細部を書けば書くほど無駄になるし、無駄にこそ人間性が見え隠れする。
だけどそんな無駄で不合理な人間のおかしさや切なさを全力で讃え慈しむのが小説という存在だと思う。
僕ら一人ひとりと同じように、なくて困らんけど、あると嬉しいのが小説なんだ。
そういうことを考えながら書こうと、書けなくて落ち込むときに考えたりします。
なぜ小説を書くのかが分からなくなったとき(完)
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