映画化、ドラマ化した大人気の小説と、大人気で有名なんだけど一向に映画化もドラマ化もしない小説とでは、どっちが勝ちなんだろう?と考えることがあります。
勝ち負けじゃないんだけど、それでも、たまに考えることがある。
だって、わざわざ小説を書くということは、やっぱりある程度小説じゃなきゃダメ、小説じゃなきゃ表現できないんだってことを書くと思うのです。
でも、それがすんなり映画化とかドラマ化して、それが面白い、感動したってなったら、あれ、これ小説じゃなくても良かったんじゃね?っていう風に作者としてはなるかもしれない。
だから映像化とかの余地がないくらい、もうこれは明らかに映像での表現は無理でしょう、小説じゃなきゃ駄目でしょうっていう作品を仕上げられる方が、小説家としては勝ったという気がするのかも。
不可侵な文字世界を作ってやったぜ、みたいな。
じゃあ小説じゃなきゃダメだっていうことって一体何なんでしょう。
付き合いでジェラートを買ったりする
小説という形式なら伝わるけど、映像化は絶対にできないというか、映像化したら良さが失われてしまうことが明らかなこと。
あくまで個人的にはだけど、小説を書くからにはそういうものを表現したいなって思う。
難しい話だけど、でも日常では意外にそういう事柄の方が多いと思うのです。
例えば、僕のスマホに入ってるメモを見たら、「いくつになっても付き合いでジェラートを買ったりする」と書いてありました。
高校生とか大学生の女の子で、何人かで一緒にアイス食べようとかパフェ食べようとかってのはよくあると思う。
「一緒に同じことをするのが大事」っていう女の子界にあるルールを、女の子の中のルールだという理解は、言ってしまえばステレオタイプな理解です。
群れたりしない子もいるだろうし、今いらんわって言う子もいるだろう。逆に男の子グループでも「一緒に何かすることが大事」な空気が流れることはあるだろう。
でも僕は女の子同士では本当はいらんのに付き合いでアイスとかパフェとか買ったりするのが基本なんだろうなって思ってた。女の子はそういうもんって思ってたし、大変だよねって思ってた。
さらに、僕にはこんな思い込みもあった。
そういうやりとりをするのは、良くも悪くも世界が小さくまとまっていて、そのグループ内で浮いたらちょっと都合が悪い子供の時期までの話で、大人になるに従ってそういうことも減って行くんだろうと思ってました。
子供大人で分けると不都合があるけど、どうしても自分の意志では容易に環境を変えられない年代や立場特有のしがらみというか、そういうものなのだろうなと。
だから、多分30代後半くらいの女性が付き合いでジェラートを買っているのを見たとき、なんか不思議な気分になったのです。
誤解を受けると困るんだけど、それが大人らしくないとか言ってるのではなく、もちろん年甲斐にもないと言ってるのでもなく、ただ僕がこのことについて思い込んでる部分が多いということに気付き、静かに驚いたのです。
ああ、まあそうだよな、歳も性別も関係なく、付き合いでジェラート買ったりすることってあるよなって。
なんで付き合いでジェラート買ってるって思ったかと言うと、(おそらく)お友達の方が3色のカラフルなジェラートを持っているのに対し、その女性が持ってるのは小さめの、抹茶のジェラートだったから。
「ジェラートに対する熱量にめっちゃ差あるじゃん」って思うとなんか無性におかしくて、勝手な決めつけではあるんだけど、あの人本当はジェラートいらなかったんじゃないのって思った。
聞いた訳じゃないから分からないけど、「あなた今別にジェラートいらなかったんじゃないですか?」って聞いてみたくなった。
もし聞いたらその人は多分、「まあせっかくだからちょっとはと思って…」とか「普段ジェラートなんか食べないから…」とかって言うんじゃないかなって思った。
妄想してるの気持ち悪いですね。でも僕の妄想は続く。
多分その女性は、自分が普段は足を踏み入れない領域であるジェラート屋さんに足を踏み入れることに興味があったのではないか。自分が普段見向きもしない場所に、当たり前のように足を運ぶ友人について行きたくなったのではないか。
もしかしたら、本当はその女性も3色のジェラートを食べたかったんだけど、始めて注文するから勝手が分からないのと、色々選んで迷ってする自分に気恥しさを感じてしまったのと、そういう色々な理由から、結局シンプルな抹茶ジェラートを頼むことになったのではないか。
そういう風に見ると、なんか抹茶ジェラートを持ってるその女性と3色のジェラートを食べているお友達が並んで歩いている姿が、すごく良いものに見えたのです。
絵にはならないけど文章にはなる
もちろん全部僕の妄想だから、そんなこと考える僕が気持ち悪いの一言で話しは終わるんだけど、僕が妄想した内容って、けっこう日常ではありふれてることだと思う。
普段行かないところだけど友達が当たり前にそこに足を運ぶとちょっと付いて行ってみようかなって思ったり、初めていくお店ではわがままな注文ができなかったり。
こういうことってあると思うし、その行動も、心理も、全然劇的でもなければ驚くことでもない。
ありふれてるし何ともない光景だけど、僕はその日のことを鮮明に覚えている。絵にはならないけど文章にはなると思った。
この場面を仮に、写真に撮ったところで、その女性がジェラートを買っている一連の姿を映したところで、多分別に何ともならないだろう。
でも文章なら、小説という形式なら、こういう取るに足らない日常をピックアップして、誰かに、その「良さ」を伝えられるんじゃないかなって思うのです。
このとき僕が感じた「良さ」が、小説じゃなきゃダメなことなのかと改めて問われると自信はないけど、少なくともそう感じたからこそ僕はあのときとっさにメモしたんだろうし、今もそのときの光景を覚えているんだろう。
小説でしか書けないことって結局何なのか分からないけど、少なくともそれを目指して、考え続ければ、近づいてはいけるのかなと思う。
小説でしか書けないことってなんだろう。僕はあの日、これがそれだと思ってメモを取った。(完)
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