言葉が先か、世界が先か。/小さなクリエイティブと世界観の関係

『亜人ちゃんは語りたい』のタイトルのすごさ。個性に寛大な社会と、語りたい時代

で書こうと思ったけど長くなるから止めておいたことがあるので、この記事ではそれを書きます。

要旨めいたものを先に書くとすると、僕がこの記事で訴えたいのは、「創作する意義」みたいなことです。

創作と言っても小説を書くとか詩を書くとかそういう本格的な、いわゆる創作に限らなくて、少なからず誰もがしているだろう日常のクリエイト。

例えばこんなブログみたいなささやかな内容でも、考えてることを誰かに話すとかでも、自分の視点を誰かに見せるという行為を繰り返す、というようなことは、けっこう大事なんじゃないかなということ。

自分は普段何を見て、それをどう捉えるのかということに対して内省的であったり、それを伝えたいと考えることの意義。

そんなことを書こうと思います。

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デミちゃんとジェンダーレスモデル

『亜人ちゃんは語りたい』アニメ第一話で、バンパイアちゃんである小鳥遊ひかりが、亜人(あじん)って響きは可愛くないし教科書的すぎるから、女子高生とか若い子の間ではデミって呼ぶんだよと亜人に興味津々な高橋先生に教えるシーンがあります。

『亜人ちゃんは語りたい』って、知らない人が普通に読めば『あじんちゃんはかたりたい』なんだけど、『デミちゃんはかたりたい』と読むのが正式です。

大した意味はないんだけど、確かにあじんと呼ぶよりはデミって呼んだ方が可愛い、親しみが持てるし、呼びやすい。

呼びやすさや親しみやすさから先に伝わって、後から実体が受け入れられるということって社会ではよくありますよね。

例えば、こないだどこかのニュースで特集をやってたんだけど、今はジェンダーレスモデルというジャンルのモデルさんがいるそうで、そのモデルさんはその名の通り、男性でもない、女性でもない、中性的な顔立ち、体つきをしている。

内面的なことまでは分からなかったけれど、特集に出ていた方は女性でありながら撮影ではイケメンって呼ばれたりして、それを本人も嬉しく思うようです。

イメージとしてはそれこそアニメやゲームに出てくるキャラクターみたい。中性的で、男から見ても女から見ても爽やかで、性的なものは感じないけれどそういうものとは少し違う次元の美しさがある。

言葉が存在の土台を作るという現象

何が言いたいかと言うと、モデルじゃなかったにしても、これまでにもジェンダーレスと呼んで差し支えない人々は世の中にいたはずなのに、ジェンダーレスと聞くといかにも現代的な新人類に聞こえるのが不思議だということです。

ジェンダーレスっていうのが最近はいるらしいぞと言われれば、はあー次から次へと変わった人が…っていう印象を持つ人もいるかもしれないけれど、これまでもそういう性質を持っていた人はいたに違いない。

だけどこれまでは、「ジェンダーレス」みたいなちょっとカッコよさげな、オシャレっぽい響きの言葉が無かったから、社会ではぴったりはまる居場所がなかったんじゃないか。人によっては自分でさえ気づいてなかったり、ちょっと変だって不当な扱いを受けたり、隠さなきゃいかなかったりしたんじゃないか。

でも今後はどんどん、「ジェンダーレス」と言えば済むようになって、あーはいはいって理解されるようになるんじゃないか。

例えば男なのにあまり性欲を持ってるように見えなくて、見た目もどっちかというとかっこいいというよりは可愛いみたいな人がいても、ジェンダーレスという言葉があることで収まりが良くなる。男のくせにとか言ってる方がなんかヒンシュクを買うようになる。

とは言え、これは例えとしてあまり適切じゃないかもしれません。

宝塚で言う「男役」の方や、歌舞伎の「女形」の存在は既によく知られているし、男でありながら女よりよっぽど女らしい、女でありながら男よりよっぽど男らしいという、性を越えた性に対する人々の憧れは根強いものがあるから。

そういった文化に加え、アニメや漫画文化が盛んな日本では特に、性を感じさせない存在や両性的な存在はそもそも受け入れられやすい事柄に思えるから。

もちろん、演じることと生来的な性別はまた別の話で、ジェンダーレスモデルが人々の憧れとしての性を演じているのか、それが自然なのかという部分は人によりけりという話になるのでややこしいのですが、ここで話題にしたいのは言葉と社会の問題。

少々先走って言うと、社会的に受け入れられる土台は言葉が先という側面があるということ。

世界は言葉でできている!言語論的転回の話

「言語論的転回」という言葉があります。

ウィキペディアの言語論的転回の項を見れば色々と難しいことが書いてありますが、簡単に捉えると、「世界は言葉でできている」という考え方です。

世界があって言葉があるんじゃなくて、言葉がこの世界を作っているという考え方。

僕はこの考え方が好きで、確かに僕らの世界、もしくは社会は言語に始まるものが多くあると思っている。

言葉があろうがなかろうが世界はあるだろう、というのもごもっともなんだけど、何が本当なのかという話ではなくて、少なくとも僕の世界は僕の言葉でできていると実感することが多いという程度のものです。

ジェンダーレスモデルの話もこの例の一つだと思っていて、「それまでにも存在したはずなのに、言葉が生まれることで認知できるようになる」という現象、「ずっとそこにあったのに、言葉が与えられることでやっと手に取れるようになるもの」が世の中にはけっこうある。

つまり、極端なことを言えば、自分が言葉として認識できるもの以外は自分の世界に無いと言える。

あ、もしかしたら「言語論的転回」という言葉をここで初めて知った人がいれば、今後世の中のそういう部分が目に垣間見えるようになるかもしれないですよね。

バレンタインデーのチョコみたいに、企業が実体よりも先に言葉や概念を流行らせようとする戦略とか、「来年の流行色」が決まってる不思議とか。

幽霊はいないのにいるのはなぜか

ちょっと話は逸れかもなんだけど、この流れで「幽霊は存在するんだろうか」みたいな話題が好きなんだよねって話をしようと思う。

これは言葉として認識できさえすれば、実体はなくても、それは自分の世界にあるという例になるかもしれない。

僕は幽霊が本当にいるかどうかは分からないし、一度も見たことがないけれど、幽霊はいると思っている。

これって不思議だと思いませんか。

僕の身の回りにも、がっつり幽霊を見たという人はあまりいないんです。いたとしてもごく少数だから、普通に考えたらそれは気のせいか勘違いであって、幽霊はいないんです。でも「幽霊」という概念自体は社会に根付いているから、例えば今後僕が幽霊らしきものを初めて見たとしたも、それが「幽霊」だとすぐ分かるはず。

僕が今後幽霊を見る機会があるとすれば、それは確実に「幽霊という言葉」が既に僕の世界観の中にあるからであって、幽霊がいるからじゃない。

このように、僕らは目の前にあるのに認知しないこともあれば、今まで一度も確認したことがないのにそのことをよく知っているということもあるのです。

そうやって考えると、自分の世界はとても頼りない。僕が見えているものが人には見えていないかもしれないし、逆にみんなに見えていることが僕だけには見えていないかもしれない。もしくは誰かに見せられているだけのものがあるかもしれない。

世界観の違いはこのようにしてできていくんじゃないかと思ってる。

自分の価値観を伝えるという創造的な行為の意義について

ここで無理やり最初の方に話を戻します。

創作の意義、日常のクリエイト。

バンパイアである小鳥遊ひかりが、今の若い子は自分たちをデミって呼ぶんだよって高橋先生に教えたのは、少なからずクリエイティブなことだったのだと思う。

あじんっていう響きは可愛くないし教科書的過ぎる、若い子は自分たちのことをデミって呼ぶ。

これを知ったとき、これまで文献の中で見てきた、本当に教科書的にしか捉えていなかった「亜人(あじん)」が、高橋先生の中で「自分の可愛い生徒」になった。親しみを込めて接することができる個人になった。

自分なりの価値観とか世界の切り取り方を誰かに伝えるって意味のあることだと思う。それが切実なものなら。押し付けるのではなく、共有したいと願うなら。

結果的に伝わるとか、伝わらないとかは置いといて、自分が見たもの、自分が知ってるものを、自分の言葉で定義しようとする意思はけっこう大切なんじゃないか。その根拠を示すのは難しいし、僕の好みの話でしかないけれど。

個人的には、その人の言葉を知るということは、その人の世界を知ることとすごく似ていると思う。

僕は小説とか映画とか、文芸が好きなんだけど、つまりそれは、それが言葉を通した世界観の提示という行為の塊で、その人の世界の集大成(もしくはエッセンス)だと思うからです。そういうものを覗き見ることができるのはとても贅沢なことだと思う。

別に大きな意味はありません。他人の世界観を知ることで、自分の世界が豊かになるかどうかなんて分からない。

でも、もしかしたら他の誰かが見つめている世界は自分がぼんやりと味気なく、もしくは面白くなさそうに眺めている世界よりずっと良いものかもしれない。

その可能性自体が希望だし、他者の世界を尊重する理由にもなると僕は思う。

言葉が先か、世界が先か。/小さなクリエイティブと世界観の関係(完)

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