小説を書くときは一人囲碁や将棋をやってるつもりで

優れた小説の文章をよく読むと、本当に無駄がなく、一文一文が必ずと言って良いほど意味を持っているものです。

あってもなくても良いかなという文章があったからといって悪い文章とは限らないし、精密であればあるほど良い文章だとも思わないどころか、「遊び」の部分にこそ個性が表れるものなのかなとも思うのですが、そういうファジーな部分も含めて無駄がない文章というものはあるのでしょう。

そういう文章を書きたいと思っても、なかなか簡単にはいきません。

しかし、文章の無駄のなさを囲碁や将棋に例えると、少し意識が変わるというか、何に気を付ければ良いのかが分かるなと発作的に思ったので、メモ的に記録しておきます。

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文章も将棋も次の一手には必ず意味がある、意図がある

名人であればあるほど、囲碁や将棋で意味のない手を打つことは少なくなるのかなと思います。

飛車をただ闇雲に動かして同じところを行ったり来たりさせるような人は素人でもいないでしょう。目を瞑って石を置く人もあんまいないでしょう。

次の一手には必ず意味があって、意図がある。

その意図の守備範囲というか射程距離はそれぞれ違うだろうし、いつその意味が表れるかは分からないけど、一手というのは必ず何らかの意味を持つ行動である。

これは文章も同じで、ただ筆が走るままに取り留めのないことを書いても文字数が増えるだけでストーリーが進みません。必ず意図を持って、次の一手としての文章を書き進めなくてはならないなと思います。

囲碁と将棋ごっちゃにしてしまって申し訳ないけど、これは小説形式に限らず、文章を書くときに強く意識しなければならないことなんじゃないかなと思いました。

目的に向かって進む文章

囲碁や将棋の目的地は、「相手に勝つこと」だと思います。

このとき、つまり一番最初の段階で、どこでどんな風に詰むかなんて考えていないはず。

だって戦局は刻一刻と変化して、自分が指した手によって相手の動きも変わるのですから、勝つという目的は変化しないけど、そこに至るまでの道筋や勝った時点での状況は幾通りもあると考えることができます。

それは物語でも同じで、目的地は問題の解決だったり、誰かの感動だったりと、どこかに着地することだけは決まっているけれど、そこに至るまでの道筋は幾通りもある。

実際、文章を書くときは自分ひとりで何もかも決めているようでいて、なぜか思い通りに進まないということはよくあります。

こんな気楽なブログ記事でさえ、はじめに書こうと思っていた通りに最後まで書けることは少ないです。

しかし、目的地は必ずある。着地点は必ずある。

囲碁や将棋であれば「勝つ」という目的地があって、文章であれば「結末(問題の解決や誰かの感動)」という目的地がある。

目的地があるということは、そこに向かって前進する道が必ずあるということだから、文章を重ねる上では常に一歩でも前進するぞという意識が必要だと思うのです。

囲碁や将棋の物語性について

ところで、囲碁や将棋の手って棋士のみなさんは全て覚えてるらしいですよね。

あんな何百手とかの道筋を全て覚えてるとか鬼かよって思うけど、一手一手が意味があるストーリーで、定石とかお約束の展開みたいなのがあるのだとしたら、それほど難しいことではないよなって思う。

僕らもアニメとか小説とか映画のストーリーなら何となく通して覚えられますもんね。脈絡があるものは流れで覚えることができる。

急に今見たの説明しろと言われると難しいだろうけど、そのつもりで少し気を付けて見れば、できないことではないでしょう。

ましてや、自分で書いたストーリーであれば、再現の難易度は格段に下がります。

このことからも、物語は囲碁や将棋的であり、囲碁や将棋は物語的であるということを感じます。

物語における結末の種類

囲碁や将棋は相手がいるという決定的な文章との違いがありますが、これも、見ようによっては似通っているなと思います。

先ほど、文章は自分で全て決めているようでいて、思い通りにならないことの方が多いというようなことを書きましたが、この思い通りに行かなさは、あたかも見えない敵が目の前にいるかのようです。

ただしこのことで、どこでだか失念してしまったけど、物語の結末には2種類あると宮部みゆきさんが言っていたことが印象に残っています。

一つは、「そうこなくっちゃ!」という結末。

もう一つは「そうきたか!」という結末。

物語の書き手を将棋の指し手に例えるとすると、前者が「勝つ(結末)」という目的に向かい筋道が思い通りになった物語で、後者が思わぬところで王手を宣言された相手側の物語なのかなと思います。

文章を書くのは一人将棋

なんのこっちゃ分からないと思うのでもう少し説明すると、例えば将棋において、盤上の主導権を握っているのは優勢の側です。

つまりこの段階で、物語(戦局)が思い通りに進んでいる側(このまま行け!と思ってる側)と、思い通りに物語が進まず、どうなっちゃうんだろう?と不安に思っている側がいるということ。

文章を書く人の頭の中は、言わばこの両者が同居しており、一人で押し合いへし合いの戦いをしているような状況です。

一人で全力の将棋を楽しんでいるようなものであり、その戦局の主導権はあっちへ行ったりこっちへ行ったりするので、なかなか思うように文章は進みません。

一方にとっては前進でも、一方にとっては後退だからです。

このとき意識しなくてはならないのは、前進でも後退でも構わないけど、どちらも無意味な動きをしてはいけないということです。これが非常に難しい。

どうしてもどちらかに贔屓してしまうのが人間で、易きに付きやすいのが人間ですが、そこは自分との闘いです。あらゆる角度から、物語の進行を阻む勢力として考え続けることで、文章は研ぎ澄まされていくのではないかと思います。

この理屈で言えば、盤面のあちら側とこちら側どちらが勝っても、それが緊迫して無駄のない戦いであれば素晴らしい着地点に辿りつくはずです。

一方にとってはそうこなくっちゃ!という着地点に行ける文章で、一方にとってはそうきたか!という着地点に行ける文章であり、それらは同時に起こっている。

♦♦♦

これは仮説に過ぎないけれど、囲碁とか将棋って文章書いてるみたいだって、「無駄を書いてることが多いな僕は」と悩んでいるときに思いついた比喩です。

あながち間違いでもないような気がする。

作家と棋士って何となく雰囲気も似てるし、普段使ってる頭の領域も似てるのかもなとか、これはこじつけですが、思ったりしたのです。

小説を書くときは一人囲碁や将棋をやってるつもりで(完)

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