小説を書くって恥ずかしいことだと思うんだよ。基本的には。でもさ。

自分に主流感があるかどうかで人の振る舞いは変わるんだろうな

という記事を書いたのだけど、たぶんぼくがクリティカルに心に刻んでるのはこのあたりなんだろうと思う。

僕は自分のまちを「小説家を目指す人が集まるような場所にしたい」ってこのブログでしばらく言ってるのですが、その真意は上の記事で書いたことにあるんじゃないかと気づきました。

読まない人のために一言で言えば、「自分はこの場で主流の存在だと思ってる人と、自分はこの場で隅っこにいるはみ出し者だと思ってる人とでは振る舞いが異なる」って話。

僕は小説家がただ集まる場所を作りたいのではなくて、小説家を目指すような人が息をするところを作りたいのだ。

小説家が、自分は小説家だというアイデンティティを自分の一番前に出して、それらしく、しかも人間らしく振る舞える場所を作りたいのだ。

そういう記事、前にも書いたのでした。

小説家として生きられる場をもったまちを作ることが目標

これはとても大切だと思うのです。

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小説を書くって、基本的に恥ずかしいことだ

だって、小説を書くって正直恥ずかしいことだと思うのですよ。

友人や恋人や家族に、あまり大っぴらに言えないことじゃないでしょうか。

小説を書いている本人だって、恥ずかしいことだって思いながら書いてると思う。逆に羞恥心がないと小説なんて書けないよとすら思うのです。

こんなの書いちゃって、これは人に見せらんねえなあって押入れの奥の方にしまっちゃう気持ちと、だけど書かなきゃ頭の中がざわついて仕方ないみたいな苦しさがある。

それは好きな人に愛の告白をすることだったり、身近な人に感謝を伝えることだったりするのと同じように、素晴らしいことだと言っても実行するのは勇気が要って、恥ずかしいことだろう。

恥ずかしいことをしていることは承知で、それでも意を決して行うような活動が創作だと思うのです。

あくまで僕の意見なので賛否両論あろうけど、その、「意を決して行う」ってあたりに熱とか価値とかが宿ると思うのですよね。

その恥ずかしさから解放される瞬間がプロになるときで、だからプロになるとその恥ずかしさがはっきりと人に示せる誇りになって、創作において、それまでとは別のエネルギーを使って書くことになるのかなと思う。

小説家が微妙にスキップしながら歩けるまちが作りたい

小説を書くって恥ずかしいこと。小説に限らず、こうして文章を書いて人に見せるってやっぱ恥ずかしいです。

その恥ずかしさは、その恥ずかしさを持ち歩いて見つめ続けなきゃいけない自分は、ときに卑屈になることもあります。

でも、やっぱり人は卑屈に生きるべきではないとも思うのです。

これだって僕の個人的な意見に違いないけど、卑屈になって、自分は世界の隅っこにいるって思い続けることは、精神衛生上良いことじゃない。

精神衛生上良いことじゃないってのは、やはり創作をする上で必ずしも拒否して否定すべきことではないのかもしれないけれど、世間に痛めつけられてでもいなきゃ病まない心はたぶん、そもそも根っこは朗らかな物だと思います。

普通に生きてれば溜まってく毒みたいなものを創作にぶつけることもあるけれど、逆もまたしかり。朗らかさも、明るさも、美しさも、物語の重要な側面に違いない。

自暴自棄になったり必要以上に卑屈になったり世間を斜めに見すぎることなく、もっと言えば身体を壊すことなく、小説を書きたい人は健全に、少しでも長く小説を書くべきだと思う。

だから、プロとかアマチュアとか関係なく、小説家として、小説家の目と小説家の振る舞いで束の間でも生きられる場所を作りたい。恋人同士が堂々とディズニーランドに行くみたいに、小説家が微妙にスキップしながら歩けるまちが作りたい。

ああ、塚田のあの家に入ってくってことは、あの人も何かしら書いてる人なんだねって普通に思われる場所にしたい。

旧佐藤医院の奥にポメラなり持ち込んでそれぞれパチパチやってるちょっと異様な光景が、夏の風物詩になるようにしたい。

とりあえず僕はひとりでもやる。一人からはじめる。

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