一番ぜいたくな読書法は自分で書くことだと思うんだ

月に何十冊も読む訳じゃないから、読書家と言われれば笑われるかもしれないけど、僕の生活に本は必要で、いつも何か読むものがないと何か忘れてるような、ぽっかりとした感覚になります。

読書は数だけがすべてじゃないと思うから月に50冊読むとか100冊読むとかばかりが読書でもなく、一冊の本を繰り返し読んだり、一字一句噛みしめるように読んだり色々な読み方ができるという話もあります。

とは言え、ゆっくり読む系の読書も数多くの読書体験による積み重ねがあってこそ最大の効果を発揮すると思うから、やはり読む量も大切。

結局何が言いたいかと言うと、何でもそうだけど、質も量も大切だよねって話です。

ところで読書家を自負する方の中には、いやもしかしたら根っからの読書家ほど読み専門という意識が高く、書くという行為はしたことがない方もいるかもしれない。

読むと書くとは大違いであるから、何も万巻の書に親しんでいるからと言ってプロの領域に達していなければならないという訳でもなく、単純に趣味として、本を読むのが好きな人は書くのも楽しいと思えるんじゃないか、読む質を上げる効果があるんじゃないかって話をします。

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書くことで気付ける小説家の技巧と、書くうちにぶつかる自分の壁(テーマ)

はじめて小説を書いたのは二十歳のときでした。

出来は推して知るべしですが、その後の読書が楽しくなりました。

ああこんな風に書けるんだ、こんなところまで気を遣ってるんだって気付ける回数が増えたからです。

その後何歳のときに何を書いたかなんて覚えていないけど、僕は感情の整理のためにストーリーを書くということを繰り返しました。

正直何が書きたいということもなく、イライラしたりモヤモヤしたりする度に書いていたのですが、繰り返し書いていくうちになんとなく同じ壁にぶつかるというか、既視感のある輪郭にぶつかる感覚があります。

ああ、こういうことを僕は書きたかったんだ。こういうことを考えていたんだということが、書くという行為を通して何となく分かるようになります。

そう考えると、書くというのは自分探しの旅のようでした。

その小説家が掲げるテーマが分かることが増え、一緒に悩むことができるようになる

おぼろげに自分の傾向、根に持ってることが分かると、読書をする上でも作者のそういう部分を見るようになります。

世間で言われていたり、本の最後の解説で書かれていたりするその作家のテーマを意識して本を読むことが少しできるようになった感覚があります。

膨大な数の読書をしている方であれば普通に分かることなのかもしれませんが、僕は説明されたものを鵜呑みにして、そういう目で作品を見なければテーマに気付かなかったですし、説明されても分からないことが多数でしたが、それが、たまにならこの作者はこういうこと考えてるんじゃないかなって分かるようになった。

少なくとも、国語の教科書にあるようなこの文章における作者の意図とか、登場人物の気持ちとかっていうのが、いやほんとは作者も分かってないんじゃないか、と理屈ではなく感覚で分かるようになりました。

分かんないから書くんだよね。まだ言葉にできないから書く力になるんだよねって思えるようになった。

これは作者のテーマが分かるようになったという先の言葉と矛盾するように見えるかもしれないけど、ここで言うテーマとは作者が一番分かんないんだよなこれどうしようかなほんと何なのかなって悩んでるものを指すと僕は思います。

それは自分が自分の手で意識を垂れ流し、それを記録する行為を続けたから分かるようになったのだという気も今ではするのです。

自分で書きながら続きを気にする。読みながら書いている

書くというのは、当たり前ですが自分で一文字ずつなにを置くか決めなくてはなりません。

日ごろの読書でどれだけゆっくり丁寧に読んでいても、一文字ずつ確実に目を通しているかと言われれば自信もなくなるでしょう。無意識に飛ばしてる箇所だってあるし、全然覚えてない箇所だってあるはず。

自分で書けば、一文字ずつ確実に自分の手で置かれなければならないし、覚えてない箇所だってほとんどありません。

何より協調したいのは、自分の手で書くのも、新しい小説を読むのと変わらず先が分からず、結末が分からないということです。つまり読書をしているのとあまり変わらないのです。

僕が素人でセンスがないからそういう事態になるのかもしれませんが、そんなこと言ったらほとんどの方が素人でセンスもないはずです。だからきっと、仮に何か書いてみようと思ったら、ほとんどの方が自分でも続きわかんねえ…ってことになるはず。

これ人の本読んでるのと大差ないじゃんって思うはず。

書く人の頭の中では最初から最後まで話は決まってるんだろうと思いがちですが、必ずしもそうではなく、最初に思い描いた結末と書き終わったときの景色はなぜか異なり、そこにたどり着くまでの過程すら思い描いていたものとは全然異なります。

だから自分の手で何かを書いている最中も、誰かの本を読むのと同じような気持ちで続きに取り掛かることが多いのです。ただ人の本を読むのとの大きな違いは、自分で書かなければ絶対に続きが無いということです。

書くという旅も絶対に予定通りにいかない

先の展開が読めないというのがどうしようもない実力の無さなのかもしれませんし、スタイルによるのかもしれませんし、ジャンルにもよるのかもしれません。

だけど何にせよ、先ほど書くことを旅に例えましたが、予定通りに行かないのが当たり前なのだと僕は思います。

好みにより、あらかじめ旅程を決め時間通りにぴったり予定通りのところを回る方もいるでしょうし、大筋以外は何も決めず気ままに動き始める方もいるでしょう。

しかしいずれにせよ、その旅は絶対に予定通りに行きません。現実の旅でも、予定通り目的地についたけど思ったより面白くなかったとか、楽しみにしてたレストランがそれほど美味しくなかったとかありますよね。

文字を書く旅でも全く同じようなことが起こり、だからこそノープランの方が楽しいと感じる方もいるでしょう。

そして仮に、読書をする時間がちょっとした旅のように感じているのだとしたら、書く行為も旅のようで、スリリングだったり、リラックスできたり、感動できたりして、読書で得られる効用と同じような感覚を持てるはずです。

そして書くことで、錯覚かもしれませんが他人が紡いだ旅の痕跡もよりよく分かるような気がして、より楽しめるような気持ちになれます。

だからこそ、本を読むのは好きだけど自分で書いたことはないという方も、別に誰に見せろという訳でもなし、プロ並みのものを作らなければいけない訳でもなし、読むために書いてみてはいかがでしょうか。

なるほどこれは贅沢な読書だなって思えるのではないでしょうか。

一番ぜいたくな読書法は自分で書くことだと思うんだ(完)

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