自分がポンコツの役立たずに感じるときの仕組み

コミュニティ・メカニズム

「あれ、自分ってこんなにポンコツだったっけ?」「めちゃくちゃ頭悪くない?」「役に立たなすぎじゃない?」って思うときってありませんか。

まるで自分が小さな子どもになったかのような、おろおろあたふたしてるだけの状況。言われなきゃ何もできない。ときには言われても意味が分からず何もできない。

きっと必要以上に使えない自分に出会ったことがあるという経験は、誰もが少なからず持っているものだと思います。

これってどうしてなんだろう?自分は要領も良く、空気も読めて、決して気の利かない人間ではないはずなのに、ある状況に陥るとなぜか能力値が半減どころか地についてしまう、ことがある。

そんなことありませんか?

この不思議について、自分を振り返ってみて少し考えたことがあるので記事を書きます。

結論を言えば、主導権を握っていない事柄に対して僕らは必要以上にポンコツになるのではないか?ということです。

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簡単なことなのに必要以上にできないこと、できなくなること

結婚して、妻と共同生活を始めてからというもの、自分がポンコツであり役立たずでありいろいろなことができない場面に多く接してきました。

特に子どもが生まれてからはその傾向が日増しに高まっています。

僕は家にいる時間が長く、我ながら家事参加、育児参加は比較的できている方だと思いますが、それでも、うまくできないことが多い。

例えば、僕は洗濯ができません。洗濯は完全に妻にやってもらっています。

掃除はできますが指示されなければ動けません。

「こことこことここに掃除機をかけておいて」と言われれば言われたことはできますが、「そろそろこの部屋掃除機かけないとな」ということにはまったく気付けません。

子どものことに関して言えば、着替えさせるのが難しいです。

着替えを用意してもらって、着替えさせておいてと言われればできますが、自分で赤ちゃんの着替えのタイミングを見計らい、適切な衣服を選ぶことができません。

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できないんじゃなくてやる気がないんでしょ?

厳密に言えば、同じ人間なんだからできないわけがありません。

掃除ができないとか着替えさせられないとか言ったら、いやいや、やる気の問題でしょ?自分の仕事だと思ってないからでしょ?と言われる気がします。

確かにその通りなのかもしれませんが、言われなくてもやりたいし、できたい、という気持ちはあります。やる気100%とは言いませんが、やる気がないわけでも、自分がやらなくて良いと思ってるわけでもありません。

それに、できないというのは言い過ぎです。結婚前は自分で洗濯をしていたわけだし、定期的に部屋の掃除機もかけてました。自分の着る服の話だけど、当然自分で選べるわけだし。

つまり、ここで言う「できない」には、いくつかの条件があったり、言葉の綾があったりすると思うのです。

能力的にできないというよりは、状況的にできない。何らかの理由でできない状況に陥ってしまっている。

ないのはやる気ではなく主導権である

仮説に過ぎませんが、僕の実感としては、主導権がない事柄に対して必要以上にポンコツになる気がしています。

僕は洗濯ができないのではなく、妻のやり方を把握していない。

僕は掃除ができないのではなく、妻のやり方を把握していない。

洗濯や掃除の主導権を積極的に妻に渡しているからこそ、僕は必要以上に動けなくなってしまっている。

妻のやり方という正解があると思ってしまっているが故に、その通りにしなければならないとも思い込んでおり、過剰に「そんなところから?」というレベルでできない。

例えば洗濯のときであれば何と何を分けて洗ってるのかが分からないし、どのタイミングで洗濯機を回すかも分からないし、干すときもどのハンガーでどの服を干してるのかが分からず、いちいち指示を受けなければ動けません。

そのルールは妻が自分の家から持ち込んだルールである(と僕が思いこんでる)から、僕が手出しできない気がする領域になってる。

子どもの服も、自分が主体となって温度と体温を把握した上で服を選ぶという行為を、初期の段階で自分では積み上げてこず、「こういうときはこれを着せて」という指示を待つところから始めてしまったので、一人で選ぶと思考が止まるという情けない状況になっている。

主導権を明け渡してるという時点でやる気がない、自分ごとの意識がないということなのかもしれないけれど、どんな事柄も、誰かと協働する場合はどちらかが主導権を握っており、段取りを握っているものだと思います。

必ず誰かが主導権を握っている

どんな状況でも、どんな事柄でも、必ず誰かが主導権を握っているものだと思います。

例えば、我が家では料理は完全に分担しています。僕が作る日と、妻が作る日がある。つまりどちらも一人で十分に料理ができる。

でも、たまに一緒に料理をすることがあります。時間がないときとか、暇なときとか、大がかりな料理をするときとか。

このとき、必ずどちらかの頭の中に段取りがあります。そして段取りがある方に主導権がありますから、必ずどちらかがどちらかに指示を出すことになる。

実際は夫婦で息が合うってことはあるし、何を作るかを二人で決めればそれぞれが動けるのでちょっと大げさな言い方かもしれないけれど、どちらかが少なからず「指示を受けなければ動けない状況」になっていると思います。

「正解のやるべきこと」が一方に偏る場合、予定にないことは誤りとなってしまい、自分流に身動きを取るわけにいかない、ということになるのです。

これを指して一方がポンコツ、ということにはなりませんが、例えば段取りがまったく明かされていない状態だったり、最終目的が分からない状況であれば、必要以上に何もできなくなるのは自然なことだと思います。

段取りや最終目的が明かされない場面がある

思い返せば、段取りや最終目的が明かされない場面が数多くありました。

自分が無意識に段取りや最終目的を明かさず、人にストレスを与えていたこともあると思います。

主導権を握っている方にとってはやるべきことは明確ですごく簡単なことなため懇切丁寧に説明するまでもないことに感じます。段取りを説明しなれていない人であればあるほど「言わなくても分かるだろう」と思ってる部分が多くなる。

最終目的も、一言口にすれば分かると思い込んでしまいます。例えば「大掃除をします」という風に言えば、最終目的は伝えることができたと思ってしまうのです。

しかし、段取りを何も知らない人であれば、「大掃除と言ってもどの程度までやるのか」がそもそも分からなかったりします。窓は拭くの?床は水拭きまでするの?それともワックスがけまで?

質問力と段取りを伝える能力の不足により人がポンコツ化する仕組み

よそのお宅の大掃除を手伝ったことがあるのですが、あのときもポンコツでしたね僕は。

窓ふきをするにしても、バケツに水を汲んでやろうとしたら「あ、窓はこのスポンジで……」とかって出てきたりしますし、そもそもそのバケツを使って良いのかも分からず、どこで水を汲むべきかも分からず。一から説明されなきゃ身動きとれない、みたいなことになる。

いちいち自分でも「そこから?」ってところから聞かなければなりません。自己判断で動いてかえって二度手間になったりしたら嫌ですから、間違えないようにすべて聞きたい。

でも「こんな簡単なことも聞かなきゃ分からないのか僕は」というブレーキもあるから、なんとなく質問の量をセーブしながら、無難なことのみをやり、指示を待つ人間になる。

ああ、使えない人間だ、と自分を責めたくもなりますが、こちらの質問力、誰かの段取りを伝える能力が噛みあわないと、状況によっては人はポンコツ化するってことに関して、最近強い興味があります。

 

 

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