行ってないのに行ける町づくり

創造で繋がるコミュニティの骨格や狙いを伝えるのは、僕の能力ではとても難しいものです。

おおかたが創造と聞けばメンドクサイと思うだろうし、コミュニティと言えば興味がない。

そもそもよく分かんないどこかの町のコミュニティが何をしようがどうなろうがほとんどの人にはそりゃ興味がありませんよね。

ましてや僕が言うのはまだ形になってない、机上の空論を語っているだけの状態なのですからなおさらです。 僕だってどこか知らない町の共同体が今後どうなろうが知ったこっちゃないし、よっぽどのことがなければ興味もわかないでしょう。

売り物ばかりだから「消費者」としか付き合えない

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「消費者」であるというバリア

みんながみんな、他人には無関心です。

これだけ人が溢れているのに、簡単に自分の小さな世界に閉じこもることができてしまうような、不気味な世の中です。

現実的で、かつ精神的な居場所はごく限られた空間ただ一つで、それは大人になるに従って固定的になっていきます。

自分の家族と、会社と、その人間関係だけで何十年も過ごします。その空間にいる間は自分はれっきとした人間なのですが、少し外に出ると「自分」と言うものがおぼろげになってしまう。

多くは自分の代わりに「消費者」という入れ物(テリトリー、バリア、ATフィールド、言い方はなんでも良い)を借りて移動します。

だからこそ、職場や家族などの限定的なフィールドを越えてきてもらうには、「売り物」を作り続けなければならない。

市町村がきっかけとして「売り物」を用意し続けるのはこのためでしょう。

そして○○町コーポレーションみたいになって、個人とのやりとりも取引めいてしまう。

「売ることしか考えない」ということは裏を返せば、「消費者」という立場の人としか関わりを持たないという選択をしたということ。

その状況を打破する仕組みとして、「消費者」と言った立場に寄らない立場で存在できる、精神的な場所づくりが大事だと思います。

山には何度も上りたくなる、自分が何者であろうと

では精神的な居場所とはなんでしょうか。

それは自分の体や社会的なステータスを必要としない、「心が赴く場所」ということです。

こう書くと我ながら胡散臭いと思いますが、その心というのは例えば「地元に対する愛郷心」とか、「思い出の場所に関する懐かしさ」とか、「趣味的な、もしくは偏執的な執着心」とか、これも言い方は何でも良いですがそういうものです。

最後のは分かりにくいだろうから具体的に書くけれど、例えば山には何度も登りたくなる、とする。

そのとき何も自分はカメラマンだからとか、自然愛好家だからと言った前置きや枠組みは必要としませんよね。

社会的にそう見られているからそう振る舞うという訳ではなく、心から求めて行っているはずなのです。 自分が何者であろうと山に登るのだろうし、必ずしも目的があって登っている訳ではないでしょう。

誰も興味のない町が見ず知らずの人と繋がるためには、「消費者」と「サービス提供者」と言った限られた関係だけではなく、もっと「パーソナルな自分」のままふらりと立ち寄れる場所となる必要があります。 そのためには、「モノを売るのではなく、体験を売る」とはマーケティングコンサルタントの藤村正宏さんの「エクスマ思考」というものですが、それも「売る」のではなく、とっかかりを「用意しておく」という程度のものであれば良いと僕は思っています。

山を登るみたいに、フラッと言ったら先人が登った痕があって、それを足掛かりに進めば何となく進める、みたいな。

それってその痕のおかげで山登りという経験は出来たけど、別に売られてる訳でも、与えられた訳でもないでしょう。(山では実際には危ないけど)その気になれば自分の道を開拓することもできる訳だし。 そんな風に、体験を促すとっかかりと言うものは誰にでも作れるはずだし、どんな町でも用意することができます。

行ってないのに行ける町づくり

本当に誰でも、どんな町でもそれはできる。

これは間違いのないことですし、全ての地域にそういうものが用意されるようになったら良いと思う。

いやそうは言っても実際には難しいよ?(まだよく何言ってるか分かんないけど)。

それで実際に足を向ける人がどれくらいいる?

そんな風に思う方もいるでしょう。

しかし、僕は今まさにそういう「とっかかり」を作ろうと思っている訳だから決して簡単とは言いませんが不可能ではないと確信しています。

さらに、実際に足を向ける人なんていなくても良いと思っています。

この時代、離れた場所でコミュニケートをするのは極自然なことですし、グローバル社会と言われる程地球は小さくなりましたが、実際に肉体を持っている僕らが移動できる距離や時間は限られています。

だからこその精神的な居場所なのです。 それは遠くからでも気になったり、思いを馳せたり、いざと言うときに逃げこみたくなるような場所です。

僕が住む「北海道、士別市、朝日町」という地域に勝手な想像を膨らませてもけっこうですし、新天地や市場として何かしらの希望にしても良いし、グーグルのストリートビューで眺めてめっちゃ田舎じゃんとか、思ったほど田舎じゃないじゃんとか言って笑いものしても良いです。

こうしてコツコツとブログを書いて、読む人が増えるにつけ、朝日町という場所が誰かの頭の隅に残る確率は上がります。

このブログあんまり朝日町の話ししないけど。

え、これ町おこしとかコミュニティ作りとか関係あるブログだったんだ!と今気付く人もいるでしょう。

また、もしかしたら奇跡的にこの文章を読んでいる誰かの中には、よく分かんないけど3年後とか5年後とかどうなってるんだろうとか考えてくれる人もいるかもしれないし、反対に意味分からんつまらんと思いながらイライラしつつも朝日町ってどこかで耳にしたら「あ、知ってる」とか思ってしまうかも。

つまり、どんな感情を抱くにしろ誰かの利害ではなく精神に繋がり、少しでも誰かの脳みそに居場所を確保できたのなら、このブログと僕がやろうとしていることの最低限の目標は達成されますから、僕の創造力の勝ちなのです。

どんな感情を抱くにせよ、その創作の過程の一つであるこの文章を読んでくれているあなたはすでに僕が用意した「とっかかり」にちょっと足をかけているということになります。

なんか呪いの手紙みたいな脅迫的な内容になってしまったかもしれないけれど、これからの「創造社会」では何も誰もがみんなクリエイティブである必要はなく、興味の赴くままに様子を見てるだけでどうしようもなく関わってしまい、すごく低次元かもしれないけれど親しみのようなものが湧く場所が多くなるということです。

それは売り物ではありませんから、お金を出して得るものでもなく、根拠なく自分のものと言っても差し支えなく、社会的なカテゴリーやステータスをとっぱらってもなお精神が赴く故郷のような場所になるでしょう。

つまり、「行ってないのに行ける町」が頭の中にたくさん生まれるということ。

見てるだけで良い、覚えておくだけで良い。 そしていつの日にか、そういった微かなとっかかり(このブログでは創造をとっかかりにしようとしている)を足掛かりにする人も生まれるかもしれません。そうなっても良いし、ならなくても良いです。

時間や場所の制約を越えて繋がる力が創造にはあるし、それができてこその「創造で繋がるコミュニティ」です。  

行ってないのに行ける町づくり(完)    

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