伝えたいことが無いという大きな問題と書くリハビリ

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文章を書く上で絶対に必要なことは、「伝えたいこと」だと思います。

少し前は頻繁にこのブログで「伝えたいこと」を書きなぐっていたのですが、ここのところはなかなかまとまった文章を書けません。一時期は月に15万字ほどの文章を書いて暮らしていたのに、今ではお気楽なブログ記事一本書くのにも苦労しています。恐ろしいことです。

 

何が恐ろしいって「伝えたいこと」の中身が急速に萎んでいったことです。

伝えたいことが詰まってる風船のようなものがあったとして、今では、必死にそれを膨らまそうとしても、どこかに小さな穴でも開いているのか、すぐに萎んで、別に書かなくても良いや、になってしまう。

一時はパンパンに膨らんではじけそうだったから必死のガス抜きのような感覚で書いていた「伝えたいこと」が、今では見る影もありません。

なんとさみしいことか。伝えたいことがなければ単に書かなきゃ良いだけなのですが、書くことがない、というさみしさに僕は耐えられそうにありませんし、焦りを感じます。

 

一方で、これは惚気でもあります。僕が文章を書けなくなったのは、結婚して、子供ができてからです。

子どもがいるとまとまって文章を書くような時間というか、思考のリソースというか、そういうものがありません。子供による騒音とか要求とか、そういうものに遮られて、考えをまとめるという行為が非常に難しくなります。

ひとりになれる場所にこもって書けば良いのかもしれませんが、僕は僕で、家族と一緒にいない時間がさみしくなってしまいがちです。家族と一緒にいないことに変な罪悪感が湧いてきてしまって、一人を選ぶことが少なくなりました。

日々のこまごまとしたことは、妻に話すことで満足します。取るに足りないアイディアも、ちょっとした疑問も、家族と話せば満足してしまうようになった。

誰かと共有したいとか、誰かに共感してもらいたい、ということが極端に少なくなった。「よそはよそ、うちはうち」が身に沁みます。

これは幸せの副作用のようなもので、書かなければと焦っていた時代の僕と今の僕は別人格のように思います。

 

ではどうして今ブログを書いているのかというと、今、突発的に一人の時間ができたということに加えて、書くことができない、考えることができないのは、書いてないからだ、という単純な事実に思い当たったからです。

書くことは「伝えること」でありますが、そもそも「考えること」でもあると思います。

「書いて、誰かに届ける」というのは、思えばごく特殊なことです。

今でこそ特殊だなんて誰も思わないかもしれませんが、ひと昔前であれば、自分の考えを不特定多数の誰かに読んでもらえるなんて機会はそうそうなかったのではないと思います。

しかし現代では、ブログを書いたなら大勢の人に読まれなきゃ意味がないように思ってしまいます。動画も、写真も、音声も、創作も、誰かに見てもらうことがごく当たり前の前提になっている。

そりゃそうです。不特定多数の人に開かれたツールであり、互いに見て、見られるという環境が高度に整っているのだから。

誰にも見られないものを書き続ける、作り続けることの惨めさに嫌気がさしてしまうこともしばしばで、僕はきっと、思ったように人に届かないことに無力感を感じていた。そこを埋めてくれたのが家族だったから、家族に逃げている、という状況です。

それじゃいかんと思ったのです。いかんというか、情けないというか。

考えないから考えられない頭になったんだろう。書かないから書けない頭になったんだろう。

書くということを通して、頭を使わなきゃ、どんどん浅瀬パシャパシャで生きていくことになってしまう。怖い。考えて、生きろ自分。と思い今日はブログを書きました。

リハビリしなければ。

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