HSPとかって言葉が人口に膾炙したことによって繊細さんや敏感さんは生きやすくなったと同時に頭を押さえつけらるような気分にもなっているのではないかと思います。
かくいう僕も昔から非常に神経が細く、HSPに関する書籍を初めて読んだとき、僕のようにびくびくして生きている人間って一定数いるのかと非常に安心したのを覚えているのですが、後にHSPという人種のことが普通に知られるようになって、ファッションHSPの人もかなり増えただろうな、自分はそう思われたくないな、いやもしかすると自分こそがファッションHSPなんじゃないか、などと色々煩悶したものです。
感覚の繊細さ、神経の敏感さなんてものは自己評価でしかなく、他人と比べられるものではない故に、自分がどれほど人より生きにくいかということも比べようがない。
ここに一種の自虐的優越感のようなものがあって、生きにくいと感じている自分も嫌いではなく、見えざるハンデキャップを抱えていることだって満更でもなく、いろいろなことが気になって生きにくいと嘆くその裏側で鈍感な人間を見下している傾向がないとは言えない人間の複雑でくそなところを自分に認める。
繊細で生きにくいことはよくあること、一定数が抱いている辛さ、と言われて安心すると同時に、自分だけが抱えている苦悩という負の優越を手放したくないジレンマがあって、結果自らをHSPという枠の中に組み込むことに抵抗を感じる。
自らをHSPだと言えば事態は伝わるけれど、伝わることで自分のアイデンティティが般化され「よくいる人」になってしまう怖さがある。
それはそれとして、僕は自身が非常に繊細で生きにくかった時代があることは確かだと思う。
ただしこれは本当に生きにくかったので、少しずつ自分が鈍感になれる術を身に着けてきた。きっとそれこそ、多くの人がこのプロセスを経て、適度に力のぬけたおっちゃん、おばちゃんになっていくんだなあと最近では思い知る。
幼い頃は全然繊細じゃないおじさんおばさんに怯えながら生きていたけれど、自らもおじさんになった今、きっと誰かを怯えさせるほどのうのうと、鈍感に生きているんだろう。
感覚を阻害するものはいくつかある。
疲れ、集中の分散、会話。
これらは少し間違うと感覚を研ぎ澄ませてしまうものでもあるから、浸りきらないことが重要なポイントになる。
疲れた体に意識を巡らせすぎると瞑想状態みたいになるし、集中の分散を書き留めるようなことをすれば興奮状態になる。会話だって真剣に行うと神経が昂ってしまうので挨拶と定型文に留めることにする。
そんな風に、自分が疲れないように生きていると自然と鈍感なおじさんになる。なにも考えてないように見えるだろうし、実際何も考えてない状態になれる。この状態が思いのほか楽で、楽だから、人はここに身をゆだねて老化するのかもしれないと最近では思う。
人は、と言えば、それこそこれは過剰般化かもしれないから言い直すけれど、少なくとも僕は歳をとって真剣に向き合わない領域を大幅に広げることで楽な時間が増えたように思う。
一方で、不意に外の空気を胸いっぱいに吸い込んだとき、サイレンや雷の音に驚いたとき、一人きりになったとき、神経が研ぎ澄まされてヒリヒリしていた頃のことが色付きで思い出されて、なんて豊かなものを失ってしまったのだろうと考えることがある。
物事はトレードオフだよね、という話でした。
ちなみに100%感覚を阻害できるものはスマホ。これは本当に薬であり毒であると思う。
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