ネット上で発信する情報は自分で自由に決められます。
ネット上では発信した情報がその人のアイデンティティとなり、その人物像を形作ります。
小説家というアイデンティティを作り出すことも可能です。
例え一作も小説を書いていなかったとしても、小説家としてネット上に存在することは可能なんじゃないか。
もちろん「小説家になりたいならそういう方法を実行せよ」というわけでも「実行したい」というわけでもありませんが、ネットの世界ではできてしまう可能性が少なからずあるということ。
そして仮にそんなことが起こった場合、僕たちは何を考えるだろう。
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一作も小説をかかないまま小説家になるシナリオ
実際に「一作も小説を書かないままに小説家になる」方法を考えると、なかなか難しそうです。
無理やりシナリオを考えるとしれば、例えばnoteのようなプラットフォームを使って「50部限定で小説を販売します」という投稿がされるとする。
価格は50,000円。
まず間違いなく買われない(とする)。
だけどなぜか順調に残り部数が減っていく。
発端はあるインフルエンサーが以下のような発言をしたことに起因する。
「ネタで買ってみたけれど掛け値なしの傑作でした。50000円の価値がある小説、と言われるとやっぱり高いかなとは思いますが、この作品の『50人しか読めない権利』を買ったと思えばむしろ安すぎと言っても良いです。
「小説は古今東西ジャンル問わず年間100冊は最低でも読んでますけど、いや、この発想はすごいですよ、この時代ならでは、って感じもしますし、しっかりこれまでの文学の形を踏襲してもいる。こんな小説体験は久しぶりでした。
「ネタバレ禁止と作者さんが言ってるのですが、これは一刻も早く誰かと話したいです。しかしどんな場面を話してもネタバレというか、興を削ぐ形になってしまうというレビュアー泣かせな構造。
このレビューを皮きりに販売部数が着々と減っていく。
その他にもたくさんの人が似たようなレビューを投稿する。
そしてついに残り部数が0になる。
しかしすべてが嘘。小説の中身はないし、レビューも仕掛けられたもの。
こんなことができたとする。
そうすれば名前と実績は十分に知れ渡り、作家として存在するようになる。
実績ができれば小説家として好スタートが切れる可能性が上がる
50000円の小説を無名の状態から短時間で売り切った、しかも高評価だったという実績があるので、小説家として立派にネット上に存在することになる。
だれかがその名前を使って実際に小説家になる。
その状態で次は3,000円程度の小説を100部限定で販売する。
これは本当に中身がある。
二作目にして処女作という謎の状態になる。
売れる。
問題はこの中身を見たときに、僕らがどんな反応をするか。
きっと長かったり難解だったりすればある程度高評価をしてしまうんじゃないかと思うのです。
『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』 を読んで考えた
これは『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』を読んで納得したのですが、僕らは威光効果から逃れるのが難しいし、最初に抱いた印象から逃れるのは難しい。
例えば先ほどの架空の小説を売るのに一役買ったインフルエンサーが文学に関係のない人だったり、普段関心のない人だったら容易に騙されないと思うかもしれない。
いくらその人が高評価をしていたとしても、批判的に読むことができて、本当の作者の実力を見極めることができると思うかもしれない。そこから、一作目の真実に思い至ることもあるかも。
しかし、発端のレビューを書いたのが普段よく読んでいる書評ブログの運営者だったらどうだろう。
もしくは尊敬する作家だったりしたらどうだろう。
その人たちの評価を蔑ろにして完全にフェアな目で見ることができるだろうか。
僕は多分無理で、買ってしまうだろうし、好意的な読み方をしてしまうと思う。
川端康成の小説がつまらなかった。そんな感想を受け入れるまでの苦悩
ちょっと余談だけど、僕が最近読んだ本では川端康成の『掌の小説』があります。
「面白くない」ということを認めるためにかなりの胆力を必要としました。
だって川端康成と言えばノーベル文学賞受賞者です。
そんな文豪の作品に興味が持てなかった、美しさが分からなかったという事実を目の当たりにしたとき、疑うのは自分の感性でしょうか?
それとも川端康成の筆力でしょうか。
そんなのは決まっています。少なくとも、「川端の小説が分からない」と言うのは「文学が分からない」と言っているようなもので、口に出すのは大変憚られるものです。
だから「自分には合わなかった」とかいう感想でお茶を濁すことになるはずです。
しかしそんな感想を抱くまでにも紆余曲折があった。
美しい文章を読んでいるのだ、という自覚を持って、美しさを探すような読み方をしました。
しかしそれでも分からず仕舞いでした。
先ほどのフェイク小説家の二作目に関しても、もし難解だったら「分からない」という感想を飲み込んで、「素晴らしい点」を探そうとすると思う。
小説が好きでよく読んでいたという自負心が、軒並みの高評価を乗り越えて「分からなかった」という感想を発信するのを阻害し、「分かる側」になるべく良かった点を発信すると思う。
(正直、村上春樹の作品にこんな感覚がある)
実在する架空のレストラン「ダリッジの小屋」
もう一つ余談ですが、例えばロンドンでは架空のレストランがレビューサイトの一位を取り、予約殺到という事件が実際にありました。
本当は存在しない嘘のレストランをレビューサイトに登録し、嘘のサイトを作り、嘘の高評価レビューを投稿し続けました。
人々はまさかレビューサイトの一位の店が存在しないなんて思わないので、大変な人騒がせになりました。
裏庭の物置小屋をロンドンで最も人気のレストランに仕立て上げる方法が公開中
最終的には10組のお客さんを招待して、プロにレトルト食品などを料理してもらって提供してネタバラシみたいな展開になったらしいですが、お客さんはそれなりに満足していたそうです。
このことからも、威光効果から逃れにくいという事実が垣間見られると思います。
許せるか許せないか
さて、誰かが小説家を創作したとします。
影響力のある誰かが思いついて、嘘のレビューを創作し、「実力のある小説家」の虚像を作ってから、実際に誰かがその小説家になりきる。
もちろん、作品がない状態では完全なる嘘を吐くということですから倫理的にアウトです。お金のやりとりがない状態で何かの法に触れるのか分からないけど、なんかには触れそうです。
実際書けば書くほどメッキが剥がれると思いますから、誰からも一円も騙し取らなかったとしても結果的に得にはならず、悪評が立つだけで、やる意味はないと思います。
しかし、誰かがそれを実行したとしたら、僕はたぶんそれほど憤ったりはしないと思います。
こういうこともあるだろうなと関心を持ち、成り行きを眺めると思う。ダリッジの小屋のときも人の心理の面白さの方に着目したような。
広い意味で創作に違いないし、実際的な迷惑がかからないのならあんま怒る必要はないのかなと思う。
マイルドな勘違いの仕掛けは普通にある
言うなれば、芥川賞とか直木賞、本屋大賞などなど、いずれも威光効果を生み出すための仕掛けだろうと思います。
実際「芥川賞」という権威を完全に取っ払って本を読むのは難しいですよね。
「芥川賞作品」が面白く感じなかったら「自分に文学は難しい」と感じると思いますし、「直木賞作品」が面白くなかったら「時代についていけない」と感じるかも。
いやこれらの賞は購買促進のためのキャンペーンという色合いが強すぎて威光効果という点では微妙かもですが、一目置かれるのは間違いないですよね。
他にも例えば映画などでよく感じます。
話題の映画の感想がコンスタントにツイッターなどで流れて、発信力のある人が発言すればまた火が付き、いまや万人が見ているという感覚になり、次第に見なければならないという気になる。
悪いことか?と言われれば決して悪くないし、良い作品でなければ口コミが広がっていくということもないのだから嘘でもない。
しかし、口コミで話題という「威光効果」があることを抜きに鑑賞するのは大変難しい。
「架空の小説家」を考えてはいるんだけど……
実は僕も「架空の小説家」を作るという試みをしています。
でもそれは作品ありきであって、そのアイデンティティが僕に帰属しないという意味なので悪意もいたずら心もなく言うなればただの好奇心なんですけど、見ようによってはただのいたずらか。
ラーメンズのコントの常居次人みたいなのがいたら面白いなと思っただけなのですが、倫理的にいけないのかな?
ちょっと不安になってきた。慎重にやります(やるんかい)。
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