文学における名作はいつ読んでも面白いから名作なわけではない。時代を掴んでいるから名作で古典なのだ説

発想と行動を記録する

これはまだ偉そうに語れるほど確信があるわけじゃないんだけど、文学における名作や古典って、なにも「いつ読んでも面白くて色あせない」から名作、というわけではないと思います。

ざっくり言えば「時代を色濃く反映している」から名作となった作品の方が多いのではないか。

文学を嗜むのなら、その作品が生まれた背景やその当時の人々が抱えていた悩みや不安と言ったものに対する理解をしなければ、ただ「有名なあの本を読破した」という達成感と、文化資本的な文脈においてマウントを取れる気がする効果しか得られないのではという懸念があります。

この記事における結論を言うのならば、まず勉強したいと思うようになった。歴史とか人の心とか経済とか国際間のごたごたとか、文学を読むためには知らなければならないことがたくさんあると思うようになったということ。

次に、有名な作を読むとき、その時代を色濃く反映している、その時代の民衆の心を掴んだ作品ということを頭に入れて、その、「時代のとらえ方」を学ばなければ意味がないと思った、ということ。

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有名な文学作品や古典はハロー効果で美しかったり崇高に見えてるってことがある

もし「有名な文学作品」や「古典的な名作」は時代を掴んでいるのだ、というあたりを度外視して、名作といわれているから、有名な作品だから、という理由で遠い過去の文学作品を読めば、「今の価値観」で、「無理やり」良いところを探す読み方になると思います。

例えば谷崎潤一郎とか川端康成の本を読んで、本当は回りくどく装飾過多な表現でよくわからないと心では感じてるのに「これが美しい日本語の表現」って脳内変換してしまったり。

ハロー効果で美しかったり崇高に見えてるってことは多分にあって、それこそ今の価値観から言えばつまらなくて読むに堪えない作品なのに、それをすべて是とする読み方をするのは危ういと思う。

僕は有名な作家、文豪の作なのだからこれが正しいのだ、これは素晴らしい文章なのだ、というガチガチの頭で読書をしてきた故、ちょっと知ったかぶりの傾向がある。

その実その作品のどこが素晴らしいのか、この文章のどこが洗練されているか、どのあたりが当時の人々に賞賛されたのかもろくにわからないまま、ただ読んだ冊数だけは多いみたいな状況に陥っている。

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とにかく勉強。勉強すればするほど面白くなる

ここで最初に書いた結論に至るのだけど、改めて勉強したくなりました。

文学を読むには、その本を開けばよいだけじゃない。その本の背後にある時代とか、人の心とか、世界情勢とか、そういうことを含めて読んで、その作品の凄さがわかるんじゃないかなと思ったのです。

書いてみればそんなの当たり前の話なのだけど、僕はこのあたりを疎かにしてきたなという自覚があります。一応文学部なのだから勉強はしてきたはずなんだけど、驚くほどからっぽ。ゆっくりでも勉強していかなければ。

また、その時代の心や状況をすくいあげる、という偉業を実感できてこそ、今古典文学や文豪の手になる作品を読む価値が生まれると思います。

いつの時代も人の心は変わりません。欲があり、業があり、愛があり、誰もが喜怒哀楽を繰り返してきた。ただその心を生じさせるトリガーや条件が時代によって変わっているのです。

そういう、人間の変わらないところと、変わっていくところについてひも解いてみたくなりました。

まだ方法は分からないけれど、その方法も含め、とにかく勉強です。

その他の名作の理由

ちなみに、「時代を掴んだから名作となった」というのは一面の真理でしかないと思います。

文学に限らないけれど、その時代にとって画期的な手法で作られた作品や、後にその世界に大きな影響を与えた作風の作品も名が残りますよね。

それもまた把握すると面白いだろうなと思います。

また、普通に面白いからって作品もありますよね当然。エンタメ的な意味で流行ったという。

それも「何がどうウケたのか」というあたりまで調べるなり考えるなりしながら読書をするともっと楽しくなるんだろうな、と思うし、PRがうまくいったとか、作者がイケメンだったとか、変わり者でキャラクターが受けたとか、今の時代もある、そういうパターンもあるだろう。

結局色々、という話になるのかもしれないけれど、掘れば掘るほど面白そうですね。

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