文学とは何かを『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』読んで考えた。コンテクスト消費と小説の相性の悪さ。

自分で考える創作論

『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』という小説を読みました。

内容のレビューはしない(てか能力的にできない)のだけど、読んでるうちに頭の中で何かがポップアップして、ブログに書きたいことが多くなる読書体験でした。

何個か書きたいことはある。

「コンテクスト消費と小説について(この記事)」

コンテクスト消費の時代を踏まえて僕たちは小説で何を書くべきか

余力があれば「青春とはなにか」ということも書いてみたい、けど書かないかもしれない。

今日は「コンテクスト消費と小説について」書いていきます。

もしかしたら「コンテクスト消費」の話だけで小説にまで届かないかもしれない。

見切り発車で行ってみます。長くなることが予想されますのでゆっくり読んでもらえると嬉しいです。

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コンテクスト消費とは

ところで「コンテクスト消費」って言葉はどこが出所なんでしょう。

「今夜はひとりぼっちかい?」ではたぬきちさんっていう方のブログ記事が引用されていたと記憶するけれど、たぬきちさんの言葉ではなさそう。

コンテキスト化。あるいはコンテキスト消費。
そいつの有無が、新書ブームと文芸書不振を分けてるんじゃないか。
同時代性というのか、共時性というのか。うまく言葉にできないが。
と思ったらグーグル先生がばっちりわかりやすい定義を教えてくれた。(

リストラなう!その15 文芸書が陥った地獄 後編)より。

その後たぬきちさんのブログで引用されているのは「インタラクリ」というブログの「ルール・クリエィティブ。」という記事の文言で、しかも当該ページにいくと

「ルール・クリエィティブ」と、いくつかのサイトに見られる「コンテクスト消費」という考え方について、キチンと記述していたのは、ブログにおいてではなく、雑誌「広告」において 、でした。

とある上で核心部分に言及されています。

以下の文章です。コンテクスト消費について非常に分かりやすく説明されていますので注目です。

今、多くの人々に楽しまれているのは、コンテンツ消費ではなくコンテクスト消費だといえる。

つまり、特定の曲や動画などの1コンテンツが良いの悪いのではなく、
ある「文脈」にのっとって皆が参加して盛り上がれるか、どうか。

そういう場や総体を共有して楽しむという方向に、エンターティメントの楽しみ方の主流が移行して来ている。

最近、何が面白い? と若者に訊いた時に、特定の「作品」ではなく、流行している「現象」や「ジャンル」や「WEB上の場」を上げるケースが多くなって来ていることに、気づくだろう。それが「コンテクスト消費」である。

「コンテクスト消費」っていう言葉の出所はこんがらがり屋の僕にはよく分からない。

そもそも「コンテクスト消費」という概念がある上で、コンテンツ消費と対比し言及しただけなのか、これが「コンテクスト消費」という言葉の初出なのかが分からない。まあいいか。

引用箇所を一読すればとりあえず「コンテクスト消費」とは何たるかは分かってもらえると思う。

10年ほど前から言及されている「コンテクスト消費」という概念

これらの記事は2009年とか2010年とかの記事だから、もう10年も前の話になる。

確かに「コンテクスト消費」に限らず「コンテクスト」つまり文脈を意識するべき、みたいな流れはずっと前からあったような気がします。

「文脈」と言うとなんかややこしいなと思う方もいると思うのでもう少し砕いて言うと「ノリが大事」みたいなことだろうか。

かえって分かりにくくなるかもしれないけれど、「みんな今何してんの?へえ面白そう。じゃあ俺もやる!」の感じです。

そもそも日本って「ハイコンテクスト文化」と呼ばれるコミュニケーション取りがちな国です。だから10年前とかってレベルじゃないのですよね。

いわゆる「空気を読む」度合が高い国民性だってこと。

本音と建て前の登場シーンが多すぎて嫌らしいのだけど、良く転べば「以心伝心」とか「阿吽の呼吸」として機能する文化ですね。

コンテクスト消費の何が10年前なのかというと、消費傾向がコンテクストにすごい依存してるよねってことです。

コンテンツの質が高ければ価値があるのではなくて、みんなに人気、みんな知ってるという流れを作り出すことができれば勝ちって傾向にいよいよなってきたよね、という言及をしてるのが10年前なのでしょう。

日本に根付くコンテクスト文化とは

もうしつこいと思うけどさらに「コンテクスト文化」について説明を加えます。

救命ボートのジョークってありますよね。

多民族ジョークでまとめられてました。リンク先の一番上のヤツです。

豪華客船が沈没して救命ボートに乗ったは良いけど定員オーバーなので何人かに降りてもらわなきゃならない。このときなんて言えば飛び込むかって話。

日本人には「みんな飛び込んでますよ」と言えば良い。

なるほどねーって僕ら思いますよね。みんなやってんなら飛ばなきゃダメかな、飛ばなきゃ恥ずかしいな、てかめっちゃ居心地悪い。よし行こう、みたいな。

みんなやってるならやらなきゃ、みんなやらないんだったらやらないでいいや、って判断基準で動くことがめちゃくちゃ多いのが日本人の国民性。

このハイコンテクスト文化はときに倫理も超越して、一度タガが外れると犯罪まがいのことを平気でしてしまったりする。

↓こっちの記事でも似たようなこと書いてます。

ネットは世間か、それとも神か。「恥の文化」と「罪の文化」について。

反対に良い行動もみんながしてるならって感じで気軽にできるんだけど、個人でやろうとするとすごい勇気がいる。

寄付活動とか。「そういう流れ」がないとなかなかできなかったのではないですか?嫌な言い方になるけど、つまり、「被災」というお膳立てがなければ寄付をしなかったという人は多いと思う。

コンテクストづくりをする僕ら

周りを窺いながら生きるって窮屈ですよね。自分の好きなようにやったら良い。やりたいことはやって、やりたくないことはやらない。

割とシンプルな話だし、そっちの方が良さそうに見える。

だけどそんなハイコンテクストっぷりはまさに「脈々と続く」文化なのでシンプルを行動にうつすのが本当に難しいのですよね。文化って馬鹿にできない。

最近では自分は自分!周りの目を気にせずしたいことをしよう!みたいな勢力が増えてきたし「個人化」が定着してきたような気もするけど、ここに至っても僕らはこれまでの風習文化から脱却できません。

呼びかけずにいられない。

みんな、私はこうだよ、好きにやってるけど全然大丈夫だよ。むしろ応援してくれる人がいっぱいいて幸せ。批判とかもあると思うけど、そんなのは無視して大丈夫。嫉妬されてる証拠。何も悪いことしてないもん。みんなも好きなことをやって、自由に生きて、私と同じになろう!ってこんな書き方すればちょっと意地悪なんだけど、やってることは「こっちがメインストリームですよキャンペーン」に他ならない。

つまり文脈の芯はこちらにある!という流れ作り。

ネットの世界はずっとそう。逆張り逆張りでこっちがメインだ、いいやこっちがメインだの四方八方綱引き状態。

ウェブってそういう風にピンと張った蜘蛛の巣のように張り巡らされていて、あっちでもないこっちでもないが張りのある市場を作ってる。

まさに文脈。コンテキスト。

もうそういうのいいよしんどいよってロープを離したり、誰とも引っ張り合ったりしないとそこは市場じゃありませーんからお金になりませーんってオチになる。蜘蛛の巣を張らない蜘蛛じゃエサが取れねえってことですね。

文学の、コンテクストに乗れないというアイデンティティ

もしかして文学って、このコンテクストに乗れないっていうのがアイデンティティなんじゃないか、と考えました。

出版不況とか、文学の衰退とか、そういうのってつまり市場が大きくならないってことの表れであって、大きなコンテクストが作れないってことなんじゃないか。

そしてその理由は、人気がないからじゃなくて、そもそも文学がコンテクストに乗れないっていうアイデンティティを持ってるからなんじゃないか、と。

ところで『今夜はひとりぼっちかい?』では、「『コンテクスト消費』は、ついこの間始まったばかりの新しい現象ではない」と言っています。

もしかしたら、ぼくたちは、「コンテクスト消費」ばかり繰り返してきたのではないだろうか。

たとえば「戦後文学」や「近代文学」や「現代文学」を、特定の作品が「良いの悪いのではなく、ある『文脈』にのっとって皆が参加して盛り上がれるか、どうか。そういう場や総体を共有して楽しむという方向」で読んでこなかっただろうか。「そうではない」という人は幸いだ。というか不幸なのかも。

『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』p157より

「そうではない」とは言わない。しかし、繰り返すけれど、文学ってコンテキストに乗れないというアイデンティティがあるんじゃないだろか、とは漠然と思うのです。

つまり、ただ弱者やマイノリティというのとも違う「主流に乗れない」「乗りたくない」「乗ったけど居心地悪い」そういういかんともしがたい時代とのミスマッチを抱えている人々を救ってきたのが文学で、主流があればどうしても生じてしまう伏流の精神を支えるのが文学なのではないかと思うのです。

文学はいつも時代を表すけれど、その中の主人公はその時代の中で文脈に沿えない、みんなについてけない人を同時に、暗示的にかもしれないけれど、表してるんじゃないか。

その寂しい感覚に共有性や共時性がなかったからこそ、文学はその時代に生きる人の糧になったのではないかと僕は推察するのです。

たまにある小説との出会いについて「自分のことが書いてあるようだった。どうして僕のことを知ってるのかと思った」みたいなエピソードを聞くけれど、まさに「ひとりぼっち」を感じたからこそこういう感覚と出会いの喜びがあるわけで、つまり「ひとりぼっち」があったからこそ、文学は文学たりえた。

文学に不利な共感と同調の時代

そう考えると、現代は小説や文学にとってはかなり不利だ。向かい風だ。

メインストリームを作るための共感や共有の創出(コンテクスト消費の土台作り)と言った現代の手法とソリが合わないのだから。

文学は原理的にメインストリームになり得ない。メインストリームに踏み込めば文学は文学じゃない。こんな大きなジレンマを孕んでいる。

ワニのジレンマを思い出す。興味ある方は左のリンクを参照してほしい。

文学と呼びたくなるものは、一定以上の人に受け入れられちゃいけない。

音楽シーンで言う米津玄師みたいに誰もが一度はその楽曲に触れ、何億という単位で消費され、時代を象徴するようなものが生じちゃいけない。

「文学」には辿りついちゃいけない領域があるという話。

あるラインを超え「消費」の度合いが高くなると文学の気配は薄くなっていく。

文学はこの世に無数にいるひとりぼっちのためのものであり、分断ありきの光明である。孤独ありきの文学だけど、文学があるからこそ孤独から救われ、世界を肯定し、世界と繋がる、自分だけの文脈になる。間接的に世界と繋がれる。

文学は表を定めればついでに生じてしまう裏、正解を定めればついでに生じてしまう誤りを見つめるものじゃないか。

拡散されちゃいけない、多くの共感を呼んじゃいけない。それは今や文学で語るべき事柄じゃない。インフルエンサーが朝一で語ることだ。

主流に対する副流を担うのが文学だ。

え、なんでそれが文学?と言うと、そもそも言葉がそういうものだからじゃないかと思う。

例えば誰かに「好きです、愛しています」と伝えれば、それよりもっと多くの人に「あなたはそれほどでもない」と伝えることになる。主を定めれば副が生じる。

何かを言うということは、それ以上に「言わない」ことに対して意味を与えることである。

その時代の中で注意深く言葉になってない言葉を拾うのが文学の仕事だろうと思う。輪郭の外側を形にするのが文学だ。

現代はひとりぼっちになりにくい。

簡単に共感されて、共有されて、明るみに出されて、メインストリームに引っ張り上げられる。

一人ぼっちは許されない、時代がそれを望んでない。

文学にとっては向かい風だ。

コンテクスト消費の中の小説

まあ確かに文学ってそういう側面があるかもな、って程度に留めるとして、一方で、じゃあ文学は終りなのか?

もしくは「小説」がコンテクスト消費に依存していないかと言うとそれはもう全然そんなことない。

肩の力を抜いて、文学とか小難しいことを考えずに、もっとコンパクトでかつ市場にもまだ食い込める可能性のある「小説」は、それほど絶望的な状況じゃない。

例えば文学賞はまさにコンテクスト。

その作者の作品を読むのではなく「芥川賞受賞作」を読む。「直木賞受賞作」を「本屋大賞受賞作」を読む。

もしくは村上春樹はコンテクスト。個人でもコンテクストは生み出せる。

村上春樹がノーベル文学賞を獲るか否かでハルキストは盛り上がってきたし、村上春樹の新作、というだけで予約が殺到する。

その小説ではなく、村上春樹というコンテクストを読んでいる。

アマチュアとして期待したいのは、例えば「このセルパブがすごい!」のような企画。

商業出版じゃなく個人出版でも小説を生活の方便にすることは可能だけど、それは個人が頑張るのにもまして「このセルパブがすごい!」のような、みんなで盛り上がれる場づくりの頑張りにかかってる。

もしくは各小説投稿サイト。質の良い作品を作ることはもちろん大事だけど、質の良い作品は評価され、報われるという「盛り上がりのあるコンテクスト」もしくは「盛り上がりのある場」が作れてこそ。

以上のことを踏まえ、次は僕たちは(てか僕は)どんな小説を書くべきなんだろうか?ということを書きます。

長かったですね。お疲れ様でした。

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