物語上で人間味のない人物をつい作ってしまうとき、その人物に足りないもの

自分で考える創作論

すらすらと書ける(描ける)し物語が破綻しているわけでもない。

だけど自分で書いていてもこの登場人物は何を考えているのかよく分からない、感情移入できない、もしくは浅い気がする、と思えて仕方ない。

そんなとき、その人物に足りないものは何だろう、ということを考えてました。

それは「コミュニティ」と「アイデンティティ」。

このブログを書いていたからこその解という感じで、自ら作話するものの登場人物に足りないものなんて無数にあると思うけど、僕はこの二つが足りないのが決定的にその人の「人間味」を失わせると思う。

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誰もがなんらかのコミュニティに属しており、伴って、そこに付随するアイデンティティを有している

誰もが何らかの「コミュニティ」に属しています。

いくら一人の気がしていたって、少なくとも「国」というコミュニティの一員であるし、職場とか家族とか趣味や部活のサークルとか、僕らの身体に付随するコミュニティは実に大小さまざまで、必ずどこかには属してしまっている。

伴って、アイデンティティを持っているはずです。

このアイデンティティって、よく考えたら説明するのが難しい概念なんだけど、無理やり日本語にすれば「自分を自分であらしめるために必要な、核だと認めていること」みたいな感じでしょうか。

ときと場合によって、どんなアイデンティティが自分の中に台頭してくるかは違います。

例えば普段は日本国民である、なんてことはあまり考えないけれど、海外にいてふと日本語が聞こえてきてうれしくなっちゃったりするとき、「ああ自分は日本人なんだな」とか思ったりする。

役職とか、親である、もしくは「手先が器用である」ということに強いアイデンティティを感じる人も、ときも、あるだろう。

僕らは必ずなんらかのコミュニティに属していて、コミュニティにはアイデンティティが伴う。

作り話になるとこの辺を適当にしてしまうことがある。

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属しているコミュニティをどう思っているか、そこで得たアイデンティティをどう思っているか

その人がどんなコミュニティに属していて、そこでどんなアイデンティティを持っているか。

そしてそういうコミュニティもしくはアイデンティティのことをどう思っているかというのは、物語の大きな問題の一つになると思います。

というか、多くの物語でエンジンとなるのは、このコミュニティやアイデンティティの問題なのではないか。

もちろんすべてじゃないし、物語とか、ましてや「小説」のようなものをある特定の枠組みに当てはめて読んでしまうことはつまらないことだなと思うけど、「僕ら人間はほとんどもれなくコミュニティとアイデンティティの問題を持っており、それは創作上の人物も同じ」ということを念頭に入れておくと、かなりクリアになるケースが多いはず。

このコミュニティとアイデンティティ、実に多様。

多様なそれらがぶつかり合ったり、押し付けあったりするのが物語(の一種の形式)なんだと思うのですよね。

例えとして適切かどうかわからないけど、谷崎潤一郎『痴人の愛』の場合

例えば僕の好きな小説の一つに谷崎潤一郎著『痴人の愛』があるんだけど、あれってどういう話かっていうと、「ある日カフェで見初めた女の子を自分好みの西洋風美女に育てたいと思った男が、実際にその子を引き取って同棲生活を始める」って話です。

ここでどんなアイデンティティが芽生えたかと言うと、男(譲治)は女の子(ナオミ)の保護者であり、プロデューサー的な存在であります。下心もあるのでしょうがその辺のアイデンティティを認めようとするかどうかは不明、というか推して知るべしという感じ?でしょうか。

一方ナオミは急に知らないおじさんに見初められ、ある日を境に西洋風な振舞いを仕込まれたり、豊満な体つきを誉められたりする。それが満更でもない限りにおいて、ナオミはそういうアイデンティティを得る。

つまり、譲治とナオミの間には肉親ではないが親子のように二人で暮らし、かつ恋人のように仲睦まじく、ときには淫猥で危うげな空気が漂う「コミュニティ」が出来ると同時に、上述したようなアイデンティティが生じる。

こういう、二人の世界(コミュニティ)で培ったアイデンティティが、外の世界、社会、社交界、その他でどういう風に機能するか。また、お互いの関係にどんな物語を連れてくるか。ここを追うととても面白い話。

コミュニティ同士の接触や相対、アイデンティティ同士の衝突や受容。僕らが知ってる物語は、創作、現実問わず、このようなもので出来ていると思いませんか。

人間の背後にはコミュニティがあり、アイデンティティがあるもんなんじゃないかな

だから、コミュニティ意識がない人間とか、それに付随するアイデンティティが構築されていない人間は、物語上でとても人間味のない人になってしまうと僕は感じています。

この人はこういう設定だからこういうことを言うことになっている。この人はこういう運命に巻き込まれるからこういう行動に出ることになっている、というストーリー上の都合により、本人の意向も何も関係なく、僕ら作者の都合で動かされてしまう。

それは人形であり、人間じゃありません。

人間は知らず放り込まれてしまうコミュニティのいちいちで、アイデンティティを探したり与えられたりしながら、その一員になろうとするというプロセスを経る。

葛藤とか抵抗とか、反対に積極的な受容や許容。多くの物語にそういうものがある。

目が覚めたら勇者と呼ばれ魔王の討伐を始める人もいれば、朝起きたら虫になっていて、最初はひた隠しに隠そうとするも、ゆっくり受け入れるしかなくて、みたいな話もある。

反対に、コミュニティやアイデンティティに不自然なほど言及しないことで「ミステリアス」だったり「天才肌」だったりする人を作ることもできるかもしれないけれど、けっこう高度な技ですよね。

いずれにせよ、人間の背後にはコミュニティがあり、アイデンティティがあるもんなんじゃないかなって思うのです。

 

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