思い出はコンテンツになる

自分で考える創作論

思い出はコンテンツになる。

年末は友人や親せきと会ったりなんだりで、人と話す時間が多かったわけだけど、思い出話というのは本当に面白いですよね。

未来に繋がる創造的な話も面白いけれど、僕は思い出話好きだな。

「コンテンツ」と言えばこうしてネット上で晒される記事と思うかもしれないけれど、現実の対ヒトとの間で交わされる一かたまりのものとして、思い出は良いコンテンツです。

あのとき実はああだったんだよとか、あのときああだったよね、って話は、覚えている、覚えていないに関わらず面白い。

同じように経験したことなのに印象が全然違ったり、あの光景が実は大きな勘違いを孕んでインプットされていたり。

驚きと、共感と、視点と、その他いろいろが思い出話には詰まってる。

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まちが人に与えるべきもの

僕は何より町で作るべきは思い出だと思う。

ずっと前にも書いたことなんですけど、愛着の正体はほとんどが過去の記憶によって作られていて、例えば他所の人にも町を大事にしてほしいと思ったら、何より与えるべきは思い出なんだろうなと思うわけです。

愛郷心の正体を探れ/なぜ愛着は生まれるのか。

だからと言ってこうすれば良い、というのは分からない。

何せ、自分たちでさえ「覚えてるのそこかよ」みたいなことばかりです。

大人が手を尽くして用意してくれた機会とか経験のことはほとんど覚えていないくせに、「あの帰り道」とか、「あのスクラップ置き場で」とか、人に話したってしょうがないことばっかりが鮮明に思い出されたりする。

狙って作れるものじゃない、お金で作れるものでもない。

思い出に残ることにはそれなりの法則があるのかもしれないけれど、法則を捉えたところで、というのは思い出だと思う。

小説と思い出

小説を書く行為のほとんども、なんだか思い出話にあるような気がするのです。

回想シーンの多様はかなり安直な手段であって小説としてはお粗末なものになってしまいがちなんだけど、やっぱり思い出とか過去の記憶というのは素材としてかなり魅力がある。

思い出を語るとき、そこにはまず物語があって、その物語を共有する時間にもまた、今ならではの物語がある。

そういう入れ子構造のお話しが、僕の欲するところで、思えば似たような驚きやカタルシスをいつも求めているのかもしれない。

もしかして、友達がたくさんいたら小説なんていらないのだろうか。

いやいやそんなまさか。

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