ワイドショーで俗にバイトテロと言われている一連の事件の報道をしていました。
バイト店員による過剰ないたずら動画。悪ふざけ動画。これが拡散され、企業が謝罪に追い込まれ、個人には法的措置の適用も検討されるという事態。
SNSがあるからこそ顕在化しやすくなった愚かしいいたずらの、その背景というか根本に、若者の「承認欲求」がある、という話題が展開されていました。
曰く、承認欲求自体は誰でも持っているもので、それ自体は否定されるものではないとのこと。
正しく承認欲求を使えば、才能や努力のため、素晴らしい行為のためのモチベーションになるのだから、正しい承認欲求を持つことが大事、というようなことを言っていて、なんだか滑稽な空気を感じました。
何となく僕は「正しい承認欲求」って聞いたときに反感を抱いたんだけど、何に違和感があるんだろう。
正しい承認欲求なんてあるのだろうか?
承認欲求が誰にでも備わっていることは自明のことで、むしろSNSとかネット全盛の時代だからこそ、本来高次にあった承認欲求というものを自覚し持て余している人は多いと思う。
僕だってそうだ。基本的欲求より承認欲求の方が強いかもしれないと思うほど。
読まれたい、見られたい、賞賛されたい、注目されたい、という気持ちは少なからずある(正直目立ちたくはないけど)。
はっきりとそういう意思を持って、ネット社会に乗り込んでいる(傾向が強い人が多い)のが現代だと思う。
そういう、基本的と言っても良いほどの欲求に、正しいも何もあるのだろうか。
まああるんだろうな。欲をコントロールすることは大事に違いない。
例えば正しい性欲というのはあるだろうか?
欲をコントロールするのは大事にしても、欲そのものにやっぱり正しいとか間違ってるとか言われるのが気に入らない、ってことなんだろうか。
他の欲求で考えてみようかな。
例えば性欲はわりとみんな持っている欲だと思うけれど、正しい性欲と間違った性欲ってあるだろうか。
例えば、同性愛が間違った性欲だ、と言われるならはっきりと「そんなことないだろ」って言えると思うけど、今回ははっきり迷惑をかけた行為だから、間違った欲求だと言っても良いのかもしれない。
じゃあ小児性愛とかだったらどうだろう。怪しくなる。でも、欲求を抱いている状態では何も悪くない。
ああこのとき、仮に小さい子に対して実際に怖がらせるようなこと、傷つけるようなことをしたとして、「そもそも幼い子に性欲を持つのは間違ってるんですよ」と言われたら、ちょっと待ってよ、と言いたくなる。
そんな感じなんだろうか。
本当に承認欲求がこじれた故のいたずらなんだろうか?
いやいやでも、承認欲求を持つこと自体は悪いことじゃないし、誰でも持っている欲求だって言ってたよな。
その上で、欲求をうまくコントロールすることが大事ということで、これ自体は保健体育の時間に「昇華」とかいう言葉でも習うこと。
そういう文脈で「正しい承認欲求」という言葉に行き当たった、というだけの話かもしれない。
だけどなんだこの違和感は。
そもそも、本当にあのいたずらや悪ふざけの根底には、本当に承認欲求なんてものがあるのだろうか。
仮にあったとしても、本当に基本的な欲求と言っても良いようなものを持ってきてどーんってされてもなんか納得致しかねることがある。
コンビニでお弁当を盗んだ人を指して、根底にあるのは食欲だ(どーん)って言ってるのと同じくらい意味のないことじゃないか?
欲求も意図もなさそうだから怖いんじゃないの?
どちらかというと、欲求も意図も感じられない純粋なる悪ふざけだからこそバカだなあとか怖いなあ、って思うんじゃないか。
何らかの欲求の発露としての表現活動なのだとしたらなんかこう文学を感じるというかそんな感じがするし(『ファイトクラブ』にウェイターのバイト中スープに尿を入れるシーンあったなあ)、何らかの意図があるならメッセージを探るため深堀する必要があると思う。
でもそういうのが感じられない純粋なる悪ふざけだからこそ、なんか理由を探したくて仕方なく、理解できないことをプライドが許さず、苦肉の策として出てきた「承認欲求」って感じだったから滑稽に思ったのかもしれない。
そもそもが精一杯ひねり出した理屈だから、その後に続く理屈もなんだか変な感じがしたんですね。
若い人たちは社会に認められてないという感覚が強いからこそこういう行為に走るとか、SNSの世界じゃなくて現実世界での承認をまず得ることを考えなくてはならないとか、え誰の話?なんの話?みたいになってしまった僕は。
有体に言えば、もっともらしいことを言って人を決めつけるようなことを言ってる感じにいらっとしたんだろうな。
わりと単純な話だった。
コメント