もっとも古いジレンマの記憶と物語の葛藤

ジレンマ・葛藤というのは、物語を作る上でとても重要な要素だと思います。

ああしたいのだけどこういう事情があってできない。

こう言いたいのだけどこういう事情があって言えない。

そういうもどかしさは、物語に、ままならない人生のリアルを植え付け、ときに滑稽を作り、スリルを作り、切なさを作る。

物語の80%は葛藤でできていると言っても過言ではないとすら僕は思う。

というわけで、どんなときに葛藤が生じるかな……と鉛筆をくちびるの上に置いて考えてるうち、僕がはじめて葛藤を感じた日のことを思い出したので書きます。

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じいちゃんの車の運転席で葛藤

小さい頃、じいちゃんの車の運転席に座りました。エンジンはかかっていないのでただの「ごっこ」です。

運転席に座ればかろうじてフロントガラスから前は見えるけれど、アクセルに足が届かない、ということを確認しました。

続いて、運転席に限りなく浅く腰掛け、目いっぱい足を伸ばせば、アクセル及びブレーキには足が届くけれど、ペダルを踏み込めば前が見えない、ということを確認しました(当時はどっちがアクセルでどっちがブレーキかも分かってなかったけど)。

なるほどなるほど。はっはーん。と思いました。

今考えてみれば、あれは大人の階段の一段目に一歩足を乗せた瞬間だったのです。

葛藤という言葉もジレンマという言葉も知らなかった僕が、身を持ってその概念を知った瞬間で、今後幾度となく繰り返されるもどかしさでした。

そしてなんと、その感覚は物語を作る上でとても重要な、人間の愛すべき不器用の形なのでした。うちの猫なんか見ててもよく葛藤してるので、とても原始的な「形」なんだろうなと思います。

僕はあほみたいに、数回アクセルに足を伸ばし、前が見えない、運転席に腰掛け、ペダルが踏めない、という確認作業を繰り返したのち、はっはーん、おれはまだ運転ができないようだぞこれ、できるわけないぞと悟ったのでした。

こんなんで運転なんてできるようになる日が来るんだろうかと思ったことはよく覚えています。

不思議なことに、いや不思議でもなんでもないのですが、今は身長が伸びて車の運転ができるようになっています。

葛藤を乗り越えることはできるらしい

これだけの経験から答えを導きだすのはどうかと思うけれど、僕らはどうやら葛藤を乗り越えることができるようです。

その方法はきっと、とても単純で、成長することなのでしょう。

物語の80%は葛藤でできているなんてそれらしいことを冒頭で書きましたが、あとの20%は「成長」でできているのかもしれないと感じました。

主人公は経験を経て成長します。

一周して戻ってくると、景色が変わっているというのが物語の基本的な構造だと言います。

成長の形はさまざまで、分かりにくいものもあるかもしれないけれど、そこには葛藤とその解消というイベントが存在するんだろうなと思います。

すべての物語がとは言わないけれど、きっと僕たちの物語はそういう風にできている。

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