小説は分業できないところが好きだ

小説はどうしても一人のものだから好きなんだ、と僕は思う。

小説を書く行為というのは、どこまで行っても孤独な作業ではないでしょうか。

孤独と言っても陽性な孤独です。

気持ちが研ぎ澄まされて、世界の解像度が上がって、過去も未来も掌握できそうになるような孤独。

それは多分いっとき神様になる行為で、もちろん自分のことをそんな大それた存在だと自惚れるわけでなく、ただ一人で何かを作るという孤高に浸り、そのことに疑問を抱かない、という程度のもの。

あらゆることは分業化されるし、分業した方が良い成果が出ることもあろうけど、小説だけは分業しきれない、と僕は思います。

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小説も分業はできるだろうが、できるからってやるか?っていう問題

小説だって分業できるよ!っていう人はいると思うし、それはそれで構わないと思う。

漫画みたいにストーリーを書く人と絵を描く人を分けるとか、もっと細かく、ストーリーを考える人、キャラクターを考える人、設定を考える人を分けても良いかもしれない。

同じように小説も、ストーリーを考える人と、キャラクターを考える人を分けても良いかもしれない。厳密に分けたりしないまでも、複数人で相談しながら考えても良いと思う。

できるとは思う。しかしできるからと言ってやるか?という問題が立ちはだかるのが小説という分野ではないかと思うのです。

僕はやらない。やっても本気ではやらない。ただのコミュニケーションとしてならやるかもしれない。

自分が作りたいものに他人が介入するのは許せないし、目指すものが同じになり得ないのだからどんな意見も的外れになるに決まってる。それくらい強く小説の分業はありえないと思う。

もちろん個人的な意見に過ぎないことは自覚してるけど。

作家の創造が行われる密室

ここまで強く否定したにも関わらず、実は一回やったことがあって。

パイナップルの花束を君たちに』という作品をこのブログではアップしてました。

ある方に「お題」のようなものをもらって、それをチェックポイントにしてストーリーを仕上げるという仕様です。こうして書くのは面白いんですよね。すごく楽しかったです実際。

じゃあどうして今や小説の分業否定派になったのかというと、小林秀雄著『考えるヒント』を読んでからです。

評論・批評とは/小林秀雄の評論はすべて『考えるヒント』だ

井伏君の「貸間あり」 という評論があって、その中に衝撃を受けた一文があります。

なるほど、作の主題は、作者の現実観察に基づくものであろうが、現実の薄汚い貸間や間借人が、薄汚いままに美しいとも真実とも読んで差支えないある力を得て来るのは、ひたすら文章の構造による。これは、小説作法のいろはなどと言って片付けられるような事柄ではあるまい。むしろ、そこだけに作家の創造が行われる密室がある事を思うべきである。(太字は筆者。なお旧字は新字に、もしくはひらがなに改めて引用しています)

くう、熱いですね。

「作家の創造が行われる密室」

この記事を読んでくれている人みんなに覚えて帰ってほしい。

小説にはこれがある、と感じるから、僕は何より小説を書くのが好きなんだ、と感じました。

ちなみに井伏鱒二の『貸間あり』について書いた記事あります。長いのでお時間ある方はどうぞ。

井伏鱒二の『貸間あり』と『リップヴァンウィンクルの花嫁』の話/化けの皮が剥がれて見える美

売れるためという目的が一致してる同士で力を合せて小説を作るなら別

「貸間あり」という作品には、カメラで捕えられるようなものは実はほとんどないのである。だが、小説の映画化が盛んな現代には、意外に強い通年がある。それは、小説家の視力をそのまま延長し、誇張し、これに強いアクセントを持たせれば、映画の像が出来上がるという通念であり、作家が、これに抗し、作家には作品の密室があると信じる事が、なかなか難しい事になっている。井伏君が、言葉の力によって抑制しようと努めたのは、外から眼に飛び込んで来る、あの誰でも知っている現実感に他ならない。なまの感覚や知覚に訴えて来るような言葉づかいは極力避けられている。カメラの視覚は外を向いているが、作者の視覚は全く逆に内を向いていると言ってもよい。散文の美しさを求めて、作者は本能的にそういう道を行ったのだが、その意味で、この作は大変知的な作品だと言って差し支えない。小説に理屈がこねられていれば、知的な作品であると思うのは、子供の見解であろう。

長く引用してしまった。ちょっと余計に引用してしまった。

多分、売れる小説を作って、映画化して、がっぽり儲けようぜ!みたいなベクトルで、小説が作りこまれるみたいなやり方なら分業も良いと思う(売れる映画を作ってから小説に展開というやり方は目立ちますよね)。

売れるという目的が一致していたら、作品の内容、作者の名前、表紙、広告の打ち方、映画化したときに登用したい俳優などなど、それぞれの専門家が頭を突き合わせて考えるのも良い。

もちろん、小説を書くときに売れたいという理由で書いたらダメと言ってるわけじゃないです。みんな少なからず売れたいでしょう。売れるという目的は一致しやすいし分かりやすいから、みんなで目指せるよねという話です。

ただ、小説を書くとき、あくまで自分の小説の完成を目指すとき、作家はクローズドな環境で、内側に籠って書かなければならないと思うんです。作品を生み出すための密室、誰にも明け渡さない不可侵の領域。内側しか開けられない場所に漂う奥ゆかしさ。

そういうものを垣間見せるための洗練された言葉を操る能力が作家には必要だと思うし、作家はそういう力があると自認している人がなるのだと思う。

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