感想を書くために本を読んでいるとなんか本をうまく読めない。
このブログも、読んだ本のあらすじ、そして感想という構成で書けば、もう少し楽にエントリーを増やすことができるのかもしれないと思って、何度かそういう風に本を読んでみようと思ったのだけど、そうすると読みながら「感想探し」をしてしまって全く没頭できない。
感想を書くために本を読んでいたのでは本末転倒。本末転倒というのがこの場合正しい使い方なのかあまり深く考えずに書いてみたけれど、とにかくそんな感じで、本を読む悦びから遠く離れていってしまうようでまったく捗らなかった。
読書感想文が苦手、という人は多いと思う。僕もその一人。
読書感想文、人によってはもっと本格的に、批評みたいなものを書きたい、もしくは、読むからには書けるようになるべきと思う人もいるかもしれないけれど、僕はどうもうまく書けなくて、何か書くために読むとたちまち読書がつまらなくて、なんか変な焦りに見舞われる。
ご飯だって感想を言わなきゃならなくなったら味に集中できないよ
焦ることはないのだ、とご飯を食べながら思った。
例えば僕は、食レポが出来なくて悩むことはない。そんな機会はほとんど巡ってこないし、たとえ食レポが拙くて人に馬鹿にされてもなんのダメージもないからだ。
だけど、もし僕が食事をして「感想」を述べなければならなくなったら、やっぱり食事は上手に取れないと思う。何か言おうとして食事なんかしたら、かえって食べ物の味なんか分からなくなる。
これはとても単純で、そりゃそうだ、と思うのだけど、こと読書になると、何か感想を述べることを想定しながら本を読むのは当然のように思ってしまうのだから不思議だと思う。
感想を述べることを念頭においたままではうまく本を読むことができない、という僕の感覚は、決しておかしなものではないのだ、と思えば、いままで通り何も考えずに本を読んで良いと思えた。
何も考えずに食事をするように。
読書周辺、時間的、空間的、エピソード的、記憶と感想
しかし、食事をすれば普通に感想を抱くこともある。これ美味しい、すごく美味しい。そういうことは思うし言う。へえー、しょうが入ってんだー、とか言う。これも感想。自然に出た感想。
僕がブログに書くようなこと、もしくは書けるようなことはせいぜいその程度。とても浅い。
印象に残る食事がある。今まで何食を経験したかは覚えていないというか数えきれないけれど、その中でも食事した時間をけっこうちゃんと覚えている食事というものがいくつかある。
特別な場所で食べたこと、念願の食べ物、会話が楽しかったこと、会話がつまらなかったこと、お腹を壊した食事、おごってもらった食事などなど。
そう考えると食事そのものだけで食事を記憶し、食事に印象を持ち、食事に感想を持つのは難しいことが分かる。
三度の飯より本が好き、というほどでもないけれど、本だって何冊読んだか分からないくらい読んでいる。そのどれもを覚えているわけでなくて、覚えているもの、印象に残っているものはほんの一握り、数えるほど。
本も本のみではなかなか印象を持つのは難しく、その周囲まるごと、自分を含んだ時間的、空間的、エピソード的記憶を丸ごと組み込んで、やっと自然な感想になる。
となれば、僕がとるべき方策は、本を読んで感想を書くための小手先の技術を学ぶことや、批評的な文章について学ぶことだけではなく、それよりももっと切実に、「読書周辺」のことを整えたり、気を配ったりしても良いかもしれない。
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