文章で生きていきたいのにブログを公開するのにも抵抗があるタイプの人

ブログについて

こうやってブログ書いてたり、小説書いてたりしてて思うのだけど、人に見られることに抵抗を覚えることは誰にでもあると思います。

僕はめちゃめちゃ抵抗を覚える。正直自分ってこういうタイプじゃないんだよな、って思ってる。

小さい頃から先生に当てられるまで絶対意見言わないタイプの子どもだったし、できるだけ目立たないように過ごしてきたわけだし、今だって人目に付きたいなんて特に思わない。

ブログ書くとか恥ずかしいとさえ思ってる正直。

おそらく、多くの人類がそうだと思うんですよね。自分って存在を目立たせるのに抵抗がある。そんなことないのかな。

小中高大と、身近に目立つことに抵抗を覚えない人はそんなにいなかったし、みんな割とひっそり、必要以上に表に出ないように振る舞ってて、ごく一部の人前に立つことに抵抗がない人とか責任感があって前に立ってくれる人と一緒に何かするとか、そんな感じだったと思う。

僕の観測の範囲ではという話だけど、比率としてはできるなら目立ちたくない人といつも目立ちたい人(必要なら目立つことも厭わない人)の構成は9対1くらいだと思うのです。

だから、それこそこの時代、ブログとか書いてる人、作品とかを作ってる人っていっぱいいると思うし、誰もが一目置かれたいと思ってるはずだけど、「本質的にそんなに目立ちたいわけじゃないけど立場上注目が必要な人」がすごい量いると僕は思ってる。

この道で行くと決めた以上、ひっそりしてたいなんて甘いこと言ってちゃダメだよなあって気持ちもあって、だから、目立とう、人目につこうと意識せず、いつの間にか注目されてた、自覚はないけれど人の心を打ってしまったみたいな展開に憧れを持ったりする。

それは頼みにしていた自分の「才能」の担保にもなるし、才能が認められたとさえ確認できれば、「人目を避ける」という自分らしい選択を取ることもできると思えて、しかもそれってちょっとアーティスティックじゃない?って思ったりする。

変なジレンマがあるんですよね。自己実現のため、目立つに越したことはない、注目を浴びることも吝かではない、しかしそれを求めているかと聞かれるとそうじゃない。だからと言ってこのままで良いとも思ってない。

この迷い、吹っ切れなさ。これさえなければたぶんたいていの人はそれなりに有名になったり実力を認められたりするんだろうなって思う。目立ちたいわけじゃないけどこう見られたいってのは少なからずあって、それさえガチっと定まれば如何なく力を発揮できるという人がいると思う。

僕もそうだろうか。いや立ち位置が定まってないという意味ではそうだけど、僕はまだ普通に実力が足りないと思うなあ。

好きに囚われそうになったら にも書いたけど、僕自身、世間と比べてこれ!ってのはいまいち無い気がするし。

でも僕以外の多くの人で、失礼ながらまだ無名と思しき人には、そんな僕が言うのもなんだし文章だけの話になるけど、嫉妬してしまうような世界観を持つ人もいるし、文章から人の良さが滲み出てたりするし、実力がないっていうよりは自らの立ち位置を決めあぐねているという段階で致命的に苦しんでたりするのだと思う。

なんか自由席のお芝居とか講演に自分だけ早く着いちゃって、「えーどの席がベストなんだろう。前の席にこんな早い時間から座ってるとガチのファンみたいでちょっと恥ずかしいし(いやファンなんだけど)、だからって中央の席は選択肢が多くて逆に選べない。F? F席くらいが一番無難?個人的には席を離れやすくて少なくとも一方の隣に人が絶対来ない端の席が良いんだけど、あとから来る人のこと考えるとこの段階で端の席に座るって相当非常識なのでは?」とかいろいろ考えちゃってウロチョロしちゃう。結局適当に人が来るまでロビーで待ってる。

そんな愚行をしてしまったりする人いませんか。僕はわりとこんな感じになるよ。日常生活でも、書くという大きな行為を通しても。

自分の収まる場所が決められず、だからってこだわりを捨てることも難しい。

また講演のたとえに戻るけど、多分迷いがない人は自分の好きな席に座るし、自分の好きな席に座るために時間を使うんですよね。自分の好きな席に座ることに抵抗がなく、自分はこの席が好きなんだって言うのも抵抗がない。

好きな席を譲ってもらえたりするのかもしれないし、「なんだあの人ガチファンすぎない?」とか、「ちょ、端から座んなよ邪魔くせえ」とか言う言動に対するカウンターもしっかり持ち合わせていたりして。

ガチでファンなんだから良いだろうが!ちけーっ!最高!てかなんでみんな同じ料金払ってわざわざ後ろの席で見てるの?参観日じゃないんだから!好きだから来てんでしょ?じゃあ好き好きってアピールできた方が良いだろうが!

こんな煽り口調じゃなかったとしても、こういう論理武装をしてたりするんだろう。

端の席が好きな人は、まだ中央の席が埋まってない段階で端に座ることが人の邪魔になるということも承知済みで、じゃあ邪魔にならないように端を狙えば良いのだという技を持ってたりするのかもしれない。通路のところで待ってたり、適度に席がうまる時間に難なくタイムスケジュールを合わせたり。

つまり迷わず、割り切る術を持ってる。目的に対してこう!っていう道筋を持ってる。

いいなあ、いいなあ、自分もああやって割り切って生きてみたいなあって思ったりする人は、良くも悪くも自意識過剰で、「人にどう見られるか?」はもちろんなんだけど、「自分が自分をどう見るか?」という点とのすり合わせで苦しいのかもしれない。

つまり、「自分はこうありたいと思っている自分を他人はどう思うだろうか?と考える自分がバカバカしく思うが愛しい」みたいな捻じれてループしたメビウスの輪みたいな自我のせいでその場でグルグルグルグル。

しゃらくせえ、変わりてえ、って思う。

ごちゃごちゃ考えんと好きなようにやれ!そのための努力をしろ!っていうのがたぶん今の主流な思想なんだろうけど、じゃあメビウスの輪を断ち切って、直線になって、迷いがなくなって、それって本当に自分だろうか?思ったことがあったらすぐに手を挙げて発声するようなヤツだっけおれ?みたいな迷いがやっぱある。

多分、僕の勝手な決めつけだけど、文章を書こうとする人ほどそういう迷いを大事にしていたりもするのだろう。あーでもないこーでもないがなきゃそもそも文章なんて書こうと思わないよ、くらいに思ってるんじゃないだろうか。僕はそう。

そんで自分はどうあるべきか?みたいなことで迷う。もう趣味と言って良いほどに迷って、行ったり来たりして、亀の歩みで何かが分かったかと思えば、あれなんか違うかもなってことを繰り返してる。

そういう思考が文章に乗っているとしたら、その文章で「人に認めてもらう」とか「成功する」とか「うまくやる」とかと引き換えに、大事な何かを書く上でのアイデンティティを犠牲に差し出してしまっているようで、そりゃやってみなきゃわかんないし負け惜しみでしかないかもだけど、なんかそれって意味ないと思うんだよな…、それってただ書くだけの人で、書く以前のものがなくなってしまう気がするんだよなとか、しゃらくささが止まらない。

この自我ループから抜け出すにはどうすれば良いか。

つまりこんなタイプの面倒な人間が、抵抗がない状態で迷いを断ち切って、割り切るためにはどうすれば良いか。

僕考えた、というか、もしかしてこういうことなのかなってのがあって、でもそれを説明するともうなんか長くなっちゃうし、もう趣味の領域、考えることが目的の考えみたいな遊びみたいになってここで書いても何の役にも立たないということに気付いたからできれば忘れてほしいし、特に気になる人は読んでくれたら良いなと思うので、改めて今度(月曜)書きます。

 

文章で生きていきたいのにブログを公開するのにも抵抗があるタイプの人(完)

 

 

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