理想の散文は窓ガラスのように透明だ

自分で考える創作論

ジョージ・オーウェルは理想の散文は「窓ガラスのように透明だ」と言ったようです。

テッド・チャン『息吹』の訳者あとがきに書いてあったことで、これまで僕はこのことを知らなかったのだけど、すごく良いことを聞いた気がしたのでブログにメモしておくことにします。

一応、該当箇所を引用しておきます。

文芸誌〈ニューヨーカー〉では、全米図書賞作家のジョイス・キャロル・オーツが、「SFが描く未来はディストピアとは限らない」と題する長文の書評を発表。

中略

チャンの文章には“ジョージ・オーウェルが理想の散文の特徴として唱導した、窓ガラスのような透明さ‘‘があり、現実離れしたひとつのイメージに焦点を当てるような寓話的な物語を伝えるのにそれが役立っている。『息吹』に収められた短篇群は、答えのない謎かけのようにいつまでも心に残り、読者を焦らし、悩ませ、啓発し、ぞくぞくさせるだろう――と、オーツは書評を結んでいる。

早川書房 テッド・チャン 大森望訳 『息吹』416‐417p

 

僕がジョージ・オーウェルの言う「窓ガラスのような透明さ」に関して読んだのはこの部分だけなので、正直どういう意味なのか、確信を持ってお伝えすることはできません。

また、インタビューなどで発言したことなのか、エッセイなどに書いたことなのかもわかりません。

しかし、文章を書く人間としては「窓ガラスのような透明さ」というのは何か大きなヒントをもらったような気になるのです。

そして、このブログを読んでくれている人にとっても僕が感じたような「詳しくは分からないけど良いこと聞いた感」を感じてほしくてこの記事を書いています。

スポンサーリンク

ガラス窓のような透明さ=わかりやすさ?

「ガラス窓のような透明さ」ってどういうことなのか、少し想像してみます。

ジョージ・オーウェルがどういうつもりでこう言ったのかということももちろん大事ですが、自分で考えてみるということがとても大切だと思うのです。

真実は大事ですが、それ以上に納得が僕らには大切なのです。

真っ先に思ったのは「わかりやすい」ということだろう、ということです。誤解のない文章、伝わりやすい文章、誰が読んでもわかる文章。

かの谷崎潤一郎も文章読本で分かりやすいことが大事だよね的なことを書いていますから、窓ガラスのような透明さとはまさに分かりやすさのことではないかと思うのです。

僕ら、ややもすると凝った比喩や、複雑な構文を作りたくなってしまいますが、それは誰かの理解を助けること、誰かの頭に誤解なく物事を積み上げるという目的があってこそ成り立つものだと思います。

分かりやすさが大事です。

スポンサーリンク

理想的な散文とは

いやでも待てよ、分かりやすさが大事なのは良いとしても、それを指して、わざわざ「窓ガラスのように透明」なんて言い方をするでしょうか?

まだ少し足りないか、全然違うか、どちらかじゃないか?

そもそも、何かを見ようとするのならば、窓ガラスってない方が良くないか?

それをあえて「窓ガラスのような」と言ったのであれば、きっと言葉で何かを伝えるということに対して最初から越えられない壁がある、という諦念みたいなものから始まっているのではないか。

もしそうだと仮定すると、「窓ガラスのように透明」というのは「まるで壁なんかないかのような」というとらえ方ができるかもしれない。

しかし実際に僕らとそれ(書こうとする何か)を遮る壁はあるので、質感やにおい、音といったものは知ることができない。

文章というのは、そういう制約のもとで勝負をするものでありながら、同時にそんな制約を感じさせないように表現することを理想とする。

そんな想像をしました。

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました