1000本ノックの効能を利用して小説の上達を目論むための合宿

表現力の向上を目指して

高校まで野球部でした。

今はインドアな僕だけど、高校までは野球少年で、実はけっこう運動は得意なのです(最近身体重く感じてひどいけど)。

中学時代、千本ノックというか、ケースひと箱いっぱいのノックを受けるという練習がありました。ひたすら取るだけ。

送球は適当で良いし邪魔にならなければ最悪後ろにぽいでも良いんだけど、ノッカーが前後左右に乱れ打ちをするので、ただただ体力が続く限り、いや体力が無くなっても頑張って追いかけるのです。

よその部活から人を借りてこないと試合ができなかった中学時代とは違い、高校では部員がそれなりにいたというのもあって、一人にひと箱いっぱいのノックなんてしてもらえませんでした。

それに当時の監督があまりそういう練習をするタイプではなく、どちらかというと壁当てで正しい形で確実に捕球する練習を繰り返すとか、イメージトレーニングをするとか、そういう要領重視の練習でした。

もしかしたら現代では特に、高校でやった練習の方が合理的に見えるかもしれません。根性でどうとか、汗かいてベソかいてどうとかって練習も流行らないのかもしれない。

でも僕は中学時代にやった千本ノックの効果をすごく感じていたのです。

どんな効果かと言うと、大きく二つ。

①アドレナリンが出て、本来以上の力が出る

②無駄な動きが減る

このブログでは本当に千本ノックの効用を書きたいわけじゃなくて、これって文章でも応用できるんじゃないかと思ったので記事にします。

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アドレナリンが出て、本来以上の力が出る

特にスポーツの場面では、ちょっとキツイ負荷をかけると成長するって聞きますよね。

筋力もそうだし、多分、大きな意味では筋力と一緒かもだけど心肺機能とかも、ちょっと頑張って血を供給しないとって状態を乗り越えると向上するのだと思います(あくまで感覚で話してます)。

あとは精神的な部分。対戦相手が自分よりちょっとうまいくらいのとき、アドレナリンが出てる感じがして成長するなんてこと、あると思います。

千本ノックはまさにこれをやる練習なのです。

まず前後左右に振られることで簡単に体力の底に辿りつきます。息は切れるし、足はパンパンになる。だけど全然終わりません。箱の中にはまだたくさんのボールがあります。

ちょっと絶望的になるんだけど、ノッカーはこちらの守備範囲ギリギリを狙ってボールを打ち込みます。常にちょっと限界を超えるつもりで頑張れば辿りつけるところへ球が飛んでくるわけです(逆にこれが上手にできないノッカーでは千本ノックは面白くない)。

ひーひー言いながらも、身体は動いてしまいます。ひっきりなしに飛んでくる絶妙な距離のボールを、追いかけたくないんだけど追いかけちゃう。疲れて頭はほぼ働いてないので猫と一緒です。

こうして半強制的に限界を超えることで、体力面、精神面での水準がちょっとだけ上がります。

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無駄な動きが減る

体力が底をついた状態でノックを受けると、不思議なことが起こります。

だんだん、身体を休ませたい一心で、ボールへの最短距離を取るようになります。

無駄なステップを踏まなくなりますし、身体を上下に動かすのが無駄だと分かるようになるので、腰を落としたステップを踏むようになります。

細かいところで言えば、いわゆるグローブさばきにも同じことが言えます。だんだん、ボールを掴みに行くというよりは、「どこにグローブを置いておけば球が勝手に入ってくるか」が分かってくる。掴む必要はなく、球が来る場所にグローブを差し出しておけば良いことに気付きます。

これ、自分の感覚では身体に負担をかけない工夫なので手を抜いているのだけど、傍からみると単純にうまくなっています。

基本の姿勢や型には意味があって、無駄のない動きが結局一番身体に負担がかからないとか、一番身体を使いやすい姿なのだということも分かるようになる。あと、よく言われる「一歩目が大事」みたいなことも、身を持って分かるようになります。

もちろんこれは「素振り」にも言えます。身体が疲れて、怠けたいと考えるまでもなく身体が怠けたくなったときに大振りの無駄さが分かります。

つまり、ひたすら数をこなすだけで、自然に正しい形に収まっていくということ。

一度や二度ではそうなりませんが、ギリギリを越えることで確実に形になっていく。

体育会系の経験の、小説の向上への応用

これが、文章にも言えるのではないかなと思うのです。

ひたすら書くことで、体力面、精神面の水準が少しだけ高くなる。

ここで言う文章ってのは、とくに小説のような文章の話がしたい。

例えばブログ記事などではPVっていう分かりやすい指標があるけど、小説の文章を評価する指標はないと僕は思っていて、「成長」とか「目標への到達」という道のりが険しくなりがちだと思うのです。

今は小説もWEB上に上げられるからPVで成長が測れるじゃんって思うかもしれないけど、それって小説の向上とはちょっと違うはず。

自分が表現せんとするものを、確実に形作ったり色づけしたりする、自分の中にしか正解がない物事について、成長や向上を感じ、意識するのは難しい。

成長や向上を感じないまま何事かを為すのは難しい。こんなとき、しかし考えずにやるのだ、とにかく書くのだ、という方法はけっこう良いんじゃないかなと思うのです。

10000時間の法則なんて話もあって、数をこなすこと、時間を費やすことそれ自体が重要という話は今に始まったことではないかもだけれど、特に正解とか向上というのが分かりにくい小説の文章と対峙する誰かに、もう体裁とか論理とか無視してとにかく鬼のように書くというもの良いと思う、という話です。

一人で限界を超えるのは難しいから合宿したい

体育会系の発想を持ち合わせていない人ってけっこういるんじゃないかなと思ったのです。

とにかくやるとか、限界を超えて頑張るとか、根性見せるとか、そういうことをナンセンスとまでは言わないけど、なんか少年漫画みたいな世界として切り離して見ているというか、スタイルとしてもともと持ってない、みたいな人。

僕も本質的にはきっとそうなんだけど、野球の経験から、ただ身体の限界から頑張るとか、考えずに身体を動かすことの大事さあるよなと思うのです。

小説を書くとき、向上を目指すとき、僕は思います。

いろいろ勉強しなきゃ、文学史とかレトリック表現とか構成とか哲学とかセオリーみたいなのを知らなきゃって思う。

本を読むときも、作者の背景を知らなきゃとか思うし、リズムは、テーマは、構成は、語彙はと考えるし、なんで一人称?三人称?と考える。どの本も鋭いレビューができるほど読めなきゃって思う。

これは賢い発想だと思うし、これはこれでやってる感はあるんだけど、身体に染み込むか、身を持って成長を感じられるかと言えば僕の場合そうでもなくて、結局自分では書けない。好きな作家の好きな話を読んで逃げて、やっぱすげえなって思うだけ。

そしてこの文体がとか緩急の付け方がとかまたそれっぽいことを考えて満足するみたいな。

それももちろん楽しいから良いのだけど、向上を目指すのであればごちゃごちゃ考えずに数を書く、数を読むということも大事だと思う。

良いから走れ!みたいな、捕れなそうでも飛び込め!そんでほーれ早く立たないと!あーあー行っちゃった!早く立って走れって!みたいなノッカーの無責任な発破のかけ方みたいので良いから、うわぁーもうムリムリって言いながらで良いからやる。

僕はごちゃごちゃ考えるだけでやった気になって自分の息切れとか無様な転び方とかを直視することが怖くなると、野球部時代を思い出して頑張ったり頑張らなかったりします。

これ一人でやるのはとても難しいです。一人で限界超えるっていうのは相当切羽詰らないとできないし、そういうときはあまり爽やかな気分になりません。

だから僕は小説家を目指す人こそ合宿が必要だと思っています。ノッカーがいて、仲間がいて、期間があって、みたいな。

お腹がギューってなるような嫌なプレッシャーをかけるのではなく、爽やかな気分で球を追うように、誰かと一緒に小説を書いてみたい。

最近は特にそういうことを強く考えます。

1000本ノックの効能を利用して小説の上達を目論むための合宿(完)

コメント

  1. 高塚 より:

    とても共感し励まされる内容でした。ありがとうございます。

    • 塚田 和嗣 より:

      高塚さん
      コメントありがとうございます!共感してくださって嬉しいです。

      塚田和嗣

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