シリーズ化するのかどうかは知らないけれど「2歳児の日本語シリーズ」ということで、うちの子をサンプルに、2歳児という言葉をぐんぐん吸収する時期の日本語の覚え方に関して、ちょっとしたことをメモしておこうと思います。
言葉を覚えてる途中の姿って面白くて、どうにか記録に残しつつ、読む人にもちょっと面白がってもらえる感じにできたら良いですね。
今日は「挟まる」と「食い込む」の違いについて、考えてもよく分からないんだけど、考えていく。
「挟まる」と「食い込む」の違いを考えた経緯
うちの子はオムツがお尻に食い込むのがすごく嫌いなようで(好きな子はそんないないだろうけど)、オムツの収まりが悪いと「はさまったー」って言って足をもちょもちょ動かします。
最初は「挟まった?何が?」って思ったのだけど、オムツを気にしていることが動作で分かったので「ああ、オムツが食い込んでるんだね?」と無意識に言い直して確認しました。
どうにかむちむちお尻に食い込んだオムツを直そうとするのですが、特に協力的な姿勢を取ることなく「はさまったー、はさまったー」と訴え続ける子。
「はいはい今直してあげるからねー」と言いつつ、「挟まるじゃなくて食い込むだよな」と思う。しかし同時に「挟まるじゃダメか?」とも思う。
この場合、「食い込む」が自然なような気がする。挟まるでは少し違和感があるような気がする。
でも、「挟まる」じゃダメか?どうしてダメだ?
オムツがお尻に挟まる。別に間違ってないんじゃ?訂正するほどか?
以上が「食い込む」と「挟まる」の違いについて考えることになった経緯であります。
「挟まる」「食い込む」例文
ビジュアル的にはそんなに変わらないと思う。
挟まると食い込む。しかし日本語ネイティブの僕らはほぼ無意識に使い分けている。
・食べ物が歯に「〇挟まった」「×食い込んだ」
これは確実に挟まるが正しい。歯と歯の隙間に食べ物のカスが挟まるということを示すためには、食い込んだでは少々意味が変わってしまう。歯に食べ物が食い込むと言えば、「歯そのもの」に食べ物がのめり込んでいる想像をしてしまう。虫歯があって、歯に穴が空いていて、そこに食べ物が詰まってしまったらもしかしたら歯に食べ物が食い込んだと言っても良いかもしれない。
・どうにか3位の成績に「〇食い込み」「×挟まれ」、からくも入賞を果たした
これは確実に「食い込む」が正しい。3位の成績に「挟まれ」、では意味が分からない。3位タイの二人に挟まれて表彰台に上る人、という謎の光景が思い浮かぶ。
これらの例文から分かることは、「挟まる」には「挟むものAB」が無ければならない。それは何となく分かる。歯に食べ物が挟まると言ったとき、常識的に考えて、歯Aと歯Bの間に食べ物が入ることが分かるから、「挟まる」を選択する。
一方「食い込む」は、そもそも「隙間」とか「AとBの間」というものが想定されていない状況で使う。3位というのは基本的に一人だから、「3位」というものに挟まれることは想像しにくい。3位に挟まれ入賞するのであれば、本人も3位です。
・壁に「〇挟まる」「〇食い込む」
これはどちらも言えるけれど、日本語を話す人であればほぼ全員が「挟まる」と「食い込む」の違いを想定しイメージを働かせ、前者が「壁Aと壁Bの間に窮屈に押し込まれている姿」を、後者が「壁Aに何らかの力で無理やり身体が入ってしまっている姿」を思い浮かべると思う。
「食い込む」に感じる意志
ここまでは全然良いというかこれなら特に悩む必要も無いのだけど、問題は、「オムツがお尻に挟まる」では何故ダメかってこと。
この問いに答えられない。
上の例に沿って考えれば、別に「お尻にオムツが挟まる」でも良いんじゃないか。少なくともダメな理由、無意識に訂正してしまう程度には違和感を感じてしまう理由がないっぽい。
もう少し「挟まる」と「食い込む」のニュアンスの違いを考えてみる。
意味であまり区別がつけられないなら気持ちの違いはないかを考える。
「挟まる」という言葉にあまり気持ち上のこだわりはないのに対して、「食い込む」では、「そこに留まってるヤツ」に微かな意志を感じないでしょうか。
「釘が食い込んで取れない」と言ったとき、釘そのものに、ここにいようとする意志がある。そう感じないでしょうか。
仮にこれを読んでくれている人も同じように感じるとして、そのように想定すれば「どうにか3位の成績に食い込み~」という文章も、食い込んだ側(この場合何らかの選手)が自らの意志でそこに留まろうとする意志で、というニュアンスにおいてマッチする。
一方挟まるは「挟まってるヤツ」に意志を感じない。完全なる被害者というか、「たまたま偶然その隙間に居てしまった」というニュアンスが強くなる。
ここまで考えてオムツの話へ。
ニュアンスの違いを二歳児にどう教えるか
オムツがお尻のお肉の隙間に入り込んでしまっているとき、現象としては「挟まってる」んだけど、僕たち大人の日本語ネイティブにとってみれば、「挟まった」では何となく違和感がある。何か言い足りないような気がする。
その言い足りなさが、「挟まってるヤツの意志」の部分なんだろう。
オムツに限らず、大人のパンツも食い込むことがある。たいてい手できちんと取り除かなければ取れない。「くそ、なんでお前、、とれないんだよっ」って気分になる。
つまり、いっとき食い込んだ布部分に「そこに留まろうとする意志」を感じるから、ただ挟まっているのではなく、食い込んでいると僕らは感じる。
以上の考えはどうだろうか。他にもいろいろ「挟まる」と「食い込む」の例文を考えると例外が出てきたりしてうまくいかないかもしれないけれど、僕はこんなところで納得した。
さて問題はこのニュアンスをどうやって二歳児に教えるかだ。
はっきり言って無理だ。これくらい複雑になってしまったり、人によって意見が違いそうな言葉の場合、教えるのは本当に難しいと思う。そもそも大人だって普通ここまで考えて言葉を使ってない。だからこそのニュアンスってやつなんだもの。
挟まったと言う度に親が繰り返し「食い込んだね」と言って直すしかない(直すほどのことかは別にして)。他の場面でも、他の物でも、挟まっているものは挟まったと言い、食い込んでいるものは食い込んでると言い続けるしかない。
そうやってニュアンスとか、ミームってもの、ひいては言語は蓄積され継承されていくんだろう。
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