併読の利点を最近感じたので報告する

silver desk lamp near pile of books読書・執筆記録
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僕は基本的に6冊程度の本を併読する習慣がある。

イメージとして、場所もしくは時間に本が備わっている感じで、例えばパソコンの横では今、宮内悠介著『偶然の聖地』を読んでいて、パソコンを立ち上げたときの待機時間に読む傾向がある。

もう読み終わったけれど同じ著者の『彼女がエスパーだった頃』はキッチンで読む傾向があって(つまりお湯が沸くまでの間に読んだりすることが多かった)、同じくキッチンで子どものご飯食べるのを見ているときは斉藤幸平著『人新生の「資本論」』を読む傾向に最近はある。

もうどちらを先に読んだか忘れてしまったけれど、『人新生の「資本論」』の「おわりにー歴史を終わらせないために」という章では、以下のような文章がある。

しかし、ここに「三・五%」という数字がある。なんの数字か分かるだろうか。ハーヴァード大学の政治学者エリカ・チェノウェスらの研究によると、「三・五%」の人々が非暴力的な方法で、本気で立ち上がると、社会が大きく変わるというのである


『彼女がエスパーだった頃』では以下のような文章がある。

これは、社会学などで転換点と呼ばれる現象のことだ。最初にこの用語を用いたのはシカゴ大学の教授であったモートン・グロッジンス。商品のヒットなどを説明する概念として、ビジネスシーンでも持ち出されることが多い。グロッジンスは白人の人口統計の分析を通じて、都市の黒人が一定数に達したときに、白人たちが他の地区へ移住していく現象があることを指摘した。

これらは根本的に違う話をしているのかもしれないけれど、似通っている。

『彼女がエスパーだった頃』から引用した文章の続きをもう少し引かせてもらう。

それが意味するところは何か。
我々の社会には、集団の性質がいっせいに塗り変わる、沸点のようなものがある。そしてそれをもたらすのは、社会の少数者にほかならないというのだ。

ここまで書けば、『人新生の「資本論」』から引いた文章と関係が無いとは思えない。少なくともこれらの文章をほとんど同時期に読んだ僕にとっては、「ここでも同じ話をしている」という印象を持つ。

そして心に刻まれる。

「社会の少数者の変化が、あるポイントを迎えたときに全て塗り変わる」

翻っていえば、「物事を変えるのに多数の行動を変える必要はない」ということでもある。

さらに考えられるのは、いくら変わった方が良いと思えることでも、自然に変わらないのだとしたら、それはわずか「3・5%」の人口ですら具体的な行動には移っていない、非常にマイノリティな領域の人たちだけが問題視していたり実際に取り組んでいる事柄なのだ、と言うこと。

しかしこれは感覚的に納得できない。

恣意的に引用した文章を混同して、「3・5%」に達した時点が転換点なのだとして、物事が本当に転換点を迎えたときに変化するのだとしたら、社会はもっともっと激動しているような気がする。

そんな激動が感じられないのだとしたら、もしかしたら、転換点に対抗する勢力。転換を阻止しようとする勢力、例えば既得権益者などがより具体的に行動によって、「3・5%」を封じている。

勢力は風の流れのように常に流動していて、ぶつかり合っていて、3・5%というのは全く勢力同士の衝突がない状態で有効となる数字なのではないか。

雲じゃ分かりにくいな。イメージとしてはサッカーで、全体の3・5%の時間、ボールを支配することができればゴールに結びつくが、ボールは当然、途中で奪われたり、ラインを越えてしまったりして、なかなか3・5%の支配率を維持することができないからあのような激闘になる、と言えば伝わりやすいかもしれない。

とにかく僕は二つの本を通してそんなことを考えることができたのが楽しかった。というかまだこれは考えている途中のことだから終わったことのように言うのはなんなんだけど、少なくとも本自体は読み終わった。

本に書いてあることの他に、組み合わせて読むとなんかこれ最近見たばっかりだぞっていう概念にぶつかることがあって、こっちに気を取られたりして面白い。

こういう繋がりが得やすいのは併読の利点と思うけれど、別に併読じゃなくても、順々に読んだって別にこの手の経験はできるのだから、やはり注意力が散漫になる併読はあまり利点がないのかな、とも思う。僕が併読をしがちなのは単純に飽きっぽいからだろう。

 

 

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