昔から人の輪に溶け込むのが難しい人間でした。
コミュニケーションは人並みに取れると思うけれど、得意分野と不得意分野の差が激しく、世の中には溶け込むのに不得意な輪が僕には多すぎた。
この輪を指して、「文化」と呼ぶのではないかと僕は最近考え始めました。
文化の本質は生活に根差し、コミュニケーションを底支えする輪
文化と聞けば伝統技術や芸術のことを思い浮かべる人が多いかもしれないけれど、それは一つの形態であり、本質は「生活に根差し、コミュニケーションを底支えする輪」だと僕は思う。
例えば、僕はタバコほど不合理なものはないと思っているけれど、喫煙家の友人に言わせると「タバコも悪いばかりではない」らしいです。
仕事の現場などで不意に初対面の人と二人きりになってしまったとき「火貸してくれませんか」とか「タバコ一本だけ良いですか」なんてきくと会話のきっかけになると言うのです。
確かに、心理学的にも人に小さなお願いをするのは距離を縮めるのに効果的だというので、理に適っているかもしれない。
タバコというモノを通じてコミュニケーションのきっかけにする。喫煙者であるという輪の中にいなければ始まらないコミュニケーションがある。
同じような理屈で「飲みにけーしょん」もコミュニケーションを底支えする文化と言って良いかもしれません。
僕は酒が飲めないから酒を飲む必要がある飲み会には興味がないのだけど、酒を酌み交わすことが心の距離を縮める効果を持つことは想像に難くありません。
タバコのやりとり、お酒の酌み交わし、食事を共にすること、裸の付き合い、スポーツ(特に観戦)、ゲームでの対戦などなど、僕にはなかなか入れない輪が世の中にはたくさんあります。
多くのコミュニケーションツールに関心を持たず、従って「人付き合いを好まないつまらないヤツ」になりがちな僕。
ここで言う文化的な輪のような、やんわりとした所属ですら僕は避けて生きてきました。
本を読むだけで、書くだけでやんわり繋がれる場を町に作りたい
しかしこのブログで僕はコミュニケーションについて考えることが多いです。
コミュニケーションとは「コミュニティ」にとってとても大事なものであり、人の集まりの核と言っても良いところだと思うからです。
苦手分野だからこそよく考える動機になったという側面もありますが、「まちづくり」に関心を持って始めたこのブログにとって「コミュニケーション」について考えるのは重要なことでした。
また、「多様性」についてもこのブログではよく考えるところです。
折に触れて考えてきましたが、文化が「コミュニケーションを底支えする輪だ」と考えるようになってから、僕が考える多様性とは「文化的な輪の多様性」なのではないかと思い、個人的に納得感がありました。
僕はタバコがコミュニケーションツールになるからと言って吸いはしないし、お酒を飲み交わすことで親睦を深められると信じている人がいても酒には弱い。
だから僕は僕で、自分のような人間でも充実感があり溶け込める「輪」を作りたい、と思ったのです。
図書館や書店などとは違う、町にある読み書き文化としての場
本を読むだけでゆるっと他者を感じたいのであれば、図書館や書店で勝手にゆるっと繋がっとけばいいじゃないかと思う人もいるかもしれません。
もしくはネット上やSNS上での繋がりで満足しとけよと。
しかし僕が作りたいのは「コミュニケーションを底支えする輪」としての文化であり、場です。
それはコミュニケーションのきっかけとして機能する可能性のある場であります。
具体的な案を形にしたのが以下になります。
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