「欲しい自分」と「なりたい自分」/それは欲か志か。

発想と行動を記録する

「〇〇になりたい」という願望は、よく考えてみると「○○が欲しい」と言い換えた方が正しいことがあります。

例えば「人気youtuberになりたい」という願望は「チャンネル登録者が欲しい」と言い換えた方が自分の気持ちに合っていたりする、というようなこと。

似たようなことですが「インフルエンサーになりたい」という願望は、きちんと言葉にすると「自分の言葉や行動に賛同し、崇めてくれるファンが欲しい」のかもしれない。

「お金持ちになりたい」は「お金が欲しい」。ストレートですね。

だけど「自分の力でお金を安定的に稼げるようになりたい」と考えるのと、「宝くじでも当たんねえかなあ」って考えるのとでは自ずと行動が変わってきますから、それが「志」なのか「欲」なのかはきちんと言語化しておくのが吉なのかなって思います。

それが「欲」の場合、欲の性質上、永遠に満たされない気持ちに振り回され続けることになるでしょうし、早めに捨て去るか「志」に切り替えた方が良いと個人的には思います。

こんな感じの話を書きます。

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志を持った自分と欲に駆られた自分

「なりたい自分」と「欲しい自分」。これは明確に違うと思う。前者は志を持った自分であり、後者は欲に駆られた自分です。

欲にかられて行動すると、仮に欲したものが得られてももっともっと、となってしまうし、仮に得たものが思ってたものと違えば、こんなはずじゃなかったと不貞腐れることになると僕は思う。

「お嫁さんになりたい」という願望は、よく考えると「結婚相手が欲しい」というだけの意味なのかもしれない。

その結婚相手が、自分を理想的な「お嫁さん」にしてくれなかったら、こんなはずじゃなかったと思う。欲にかられた自己実現、志を持たない自己実現は、「私は良いお嫁さんでいたいのに、夫がそうさせてくれない」という風に考える温床かもしれない。

こういうことってよくあると思うんですよね。

志を持った自分は人のせいにしないし、自分と戦う。

欲に駆られた自分はすぐ人のせいにすると、他人と戦う。

そういうもんだと思いませんか。

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小説家になりたい自分と読者が欲しい自分

「小説家になりたい」

これは言い換えると、「自分の小説を(お金を出してでも)読んでくれる読者が欲しい」ということかもしれない。

これは自分に当てはまることなのでもう少し深堀できるけど、「自分の作品を認めてくれる人が欲しい」とか「自分の作品を楽しみにして、没頭してくれる人が欲しい」ということかもしれないです。というかそういう欲は間違いなくありますよね。

「小説家になりたい」のであれば、小説を書けば良いです。分かってる。自分が信じる小説を淡々と作れば良い。それを世間が、時代が、認めてくれるのかは、究極どうでも良い。自分が思う小説家を貫けば良い。志に従って作り、成る。

だけど欲が先に立つと「webで発表する場合、タイトルをこうしたらSROで引っかかりやすいから閲覧数が上がる」とか「人気絵師にキャラクターを描いてもらえば人気が出るに違いない」とか「リーダビリティを上げて読みやすくしないと離脱される」とか、そういう小手先のことばかり考えるようになって、漠然とした顔のない「読者」を相手に「数字」を積み上げることになる。

志を持って欲を扱う

それを「戦略」と呼んでも良いかもしれないし、間違った方法と言いたいわけでもないです。

それに、「欲」って必要だろって話でもあります。

確かにそうですよね。

でも、それは自分でコントロールできる範囲においてであります。

その行動は欲に駆られたものなのか、志に基づくものなのかってことを少なくとも自分の中では言語化する必要があると思うのです。

欲は大事だけど、知らずに欲に振り回されたりするのは良い結果を招くとは思えないじゃないですか。

まとめると、「志を持って欲を扱う」ように自分をコントロールできたら良いよね、みたいな話です。

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