文才があるときとないとき/文才の高め方

person holding blue ballpoint pen writing in notebook表現力の向上を目指して
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読んでいる間ずっと面白い文章というものがある。

もちろんこの「面白い」の種類は様々で、笑えるとかタメになるとかに限らず、実に多様なものを含んでいる。

僕は小説を読むことが多いんだけど、ある時期から、「読んでる間ずっと面白い文章」でできている小説が良い小説なんだなと思うようになった。

僕が「良い小説だ」って思ったからと言って、それが普遍的に良い小説なのかどうかは分からない。

なんせ、繰り返すけど、「面白い」って多様で、笑えるとか感動するとか、そういう指針で面白いかどうかを決めている人がいたとしたら、特に笑えないことがテーマだったりしたとき、その時点でもう面白くないと思われてしまうはずだから。

何が言いたいかと言うと、まあ絶対的な文章なんてない、ということ。

絶対的に素晴らしい文章なんてない。

いつも誰かの趣味嗜好に、思想に、気分に、体調に、もしくは時代によって求められるものは左右されるのだから、絶対的なんてない。

それはそれとして、僕にとって「読んでる間ずっと面白い文章」ってのはあって、それは「自分に合ってる」のであって、尚且つその文章を書く人には書く才能があるからこういう現象に落ち着くというのはあるけれど、それだって「絶対」ではない。

じゃあ文才。文才がこの記事の真のテーマで、僕の悩みの種。僕には文才があるのか?ないのか?

これを読んでくれている誰か。ご自分は文才あると思う?ないと思うなら何が足りないと思う?

この、文才に必要なものについて、書いていきたいと思う。

結論から先に言えば、めちゃくちゃ精神論になる。熱量。それが文才の、少なくとも土台なんだろう。

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文章を書く自信が無くなってきた

もともと文章を書くことに抵抗がなく、文章を書く仕事を10年くらいしていたのだから、それなりに文章は書けるのだと思うけど、ほんとここのところ自信がない。

本当は僕、多くの人より文章がへたくそなんじゃないか?と思うのはデフォルトで、意味が伝わるものが書けたとしても全然面白くないんじゃないか?と思うのはしばしば。出力する能力以前に、文章の内容を思いつく能力すらそもそも無い、発想が脆弱で古い、とそろそろ自分で自分を判断しそう。

そこそこ書けたとしても、じんわり誰かに好きだと思ってもらえるものとか、大切に大切にされる衝撃とか、そういうものはまるでないんじゃないかと思う。心から、印象に残るような。

まあ良いや、天稟なんてものは持ってないだろう。そんなものを持ってたら10代で天才と呼ばれる成果を上げているはずであるが何も成果なんてないんだから、天稟、天賦の才、そういうものは持ってない。そこまではオーケー。

こんな僕でも、何度か文章を褒められたことはあって、このブログでも、長らく読まれていたり、ありがたくも感想をいただいたものがあったりはする。また、自分で書いた小説で、気に入っているものは今読み返しても、これ書いたの誰だろう?素晴らしいなって思うくらいには面白いし、そこには確かに煌めきがある。

僕には多分才能はないけど、ときたま文章に対してものすごい熱量を発揮することがある。

ここでスピリチュアルな話になる。精神論になる。熱量の話。

このブログでけっこう長く読まれていて、文章の良し悪しは不明だけどやたら熱がこもっていると自負している記事を一つ、二つ貼っておく。お時間ある人はどうぞ見てみてほしい。

 

夏目漱石『こころ』「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」の意味が分かるような日

 

羽川翼はなぜ天才なのか。瞑想状態の聖人と凡人な僕ら。

 

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もっと熱量がある文章を書けよ私

あえてスピリチュアルと言えば「スピ系」に興味がない人を退けてしまう可能性があるけれど、同時に「スピ系」に興味がある人を引き付けることができる。

その上で、「スピ系」に興味を持っている誰かのスピリチュアル精神を満足させるようなことが言えるかって言うとそれは分からない、というかやっぱり自信がない。ここが僕の限界で、結局妥当なところに落ち着いて、突き抜けるということができない。こんな半端なことばっかり繰り返している。

こんな言い訳を読んでもらった上で話したいのは、文才のありやなしやは、熱量の違いなのではないかってこと。

思い返せば、良い文章が書けたときはいつも熱量が最大だった。集中力でPC画面に穴があくのではないかと思えるほどの事態がときたま起こる。

そういうときに書けた文章は例外なく誰かに届く。例外なく。

「ハンター×ハンター」では念能力ってものが厳然と存在する。かなり初期、ゴンとキルアが蚤の市みたいなところで「掘り出し物」を発掘せんとするとき、目を凝らすと作品に込められたオーラが見える、ほんのり光って見えるっていう描写があるけれど、これって本当に本当の話で、良いものにはオーラが籠るのではないか。

それは明らかに特別な力で、もちろん普通は目に見えないけれど、あるタイプの人には伝わる。例えばそれは文章が好きな人。文章が好きな人は文章に込められた熱量を感じ取るピット器官みたいなものを備えている。

音楽が好きな人は、建築が好きな人は、絵が好きな人は……という風に、それぞれが持っている熱量を感じる器官に呼応して、それは発掘される。

文才のありなしも絶対的なものではないと思う。熱量を込められるかどうか。そのつもりがあって、その必要があるか、ないか。

 

ものに熱量を込め続ける訓練

対象物に熱量を込め続ける訓練をしなければ、と思う。

対象物とは僕の場合、文章にまつわるもの。

僕は最近自分の文才というものにめっきり自信がなくなっているけれど、文才とは、才能とは、熱量なのだと考えると、文章に自信がなくなった経緯に関して思い当たることはたくさんある。

文章を書く仕事をすっぱり辞めて酪農の仕事を始めた。時同じくして子どもが生まれた。

正確には子どもが生まれた頃くらいからそれまでの文章の仕事の雲行きが怪しくなって、新生児のお世話ヤバーって思ってるタイミングで仕事がなくなるという苦境に見舞われた、から折よく話があった酪農の仕事を始めた。

日銭を稼ぐこと、育児をすること、家庭を平穏に保つこと、にたくさんの熱量が奪われて、というか文章に込めるはずの熱量を得ようとしても燃料不足で撃沈、ということが続いている。

ここまで言い訳めいたことを言って情けない限りだけど、こんなことを書いて憚らないのは時間があれば良い、肉体が疲れていなければ良い、という問題でもないことが分かっているから。

時間はたっぷりある、体力もある、という日は全然珍しくなくて、正直僕の毎日、こんなに楽で良いのだろうか?と思うこともしばしばある。

ならば余ったエネルギーで、過剰な情熱で、何か書けば良いものを、余裕がある日はワをかけて動けなかったりする。ここを指して僕は自分には才能がないのではないか、と思っているのだと思う。

余裕があっても、余剰があっても、そこ(文章)に熱量を注ごうとする意志が希薄になってきている。

ここを指して僕は、僕に自信がなくなってきている。これは由々しき事態で、この現状に反して、僕はまだまだ書きたいと思っている。文章を書きたいと思っていて、どこかの誰かに、この文章は、読んでいる間ずっと面白い、と思ってもらえるようなものが書きたい。

そのためには基本的な文章の修行も必要なんだけど、この、僕がもともと持っている熱量をしっかり文章に込める訓練をしなければならないと思う。

集中する訓練。具体的にできることはたくさんある。

時間を制限して一気呵成に書く、誰にも(主に子どもに)邪魔されない環境を守る、体力を維持する、とくに精神的な体力の維持のため、スマホで余計なものを見ない。文章に躓くと集中力が落ちるから、基本的な文章の作り方をもう一度学び直し、構築段階で躓かないようにする。書き直しを厭わない。ブログを書く習慣をもう一度つける。良い文章を読む。感動を探し続ける……etc

 

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