多様なものを多様なままにしておく工夫

発想と行動を記録する

多様性が叫ばれる時代ですが、世界というものはそもそも多様なものですよね。

世界はもともと多様です。「多様性を尊重」とか、「多様性のある社会」とか、そういうスローガンを掲げるまでもなく、そもそも多様。そういうスローガンを掲げることそのものが「多様性」に対する鈍感さを浮彫りにしている。

ピンと来ないのであれば森の中に入ってみれば分かります。

自然界は正しいものだけで埋め尽くされている訳ではないし、適者だけがいつも生き残っている訳ではない。

世界は常に雑多で、どの種がいつどうなるか分からない状態で、整列なんてしてないし、同じ形なんかにならないまま、それぞれ独自のやり方でいて、その上で共存している。

多様なものを多様なままにしておかなかったのは僕らで、「一様」であることに不都合が生じたからと言って多様性がどうこう言うのは虫が良い。それでも「多様性を尊重」したいのなら、そもそも僕らは自然に多様なのだから、「ほっとけ」の一言に尽きる。

多様なものを多様なままにしておくには「ほっとく」しかない。

しかしそれができない。

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人間は間違ったまま生きることができない

僕らは間違ったまま生きることができません。

僕らは言葉を持っているが故に過去や未来を共有することができます。コミュニケーション能力が非常に高いのです。これは言うまでもなくアドバンテージですが、多様なものを多様なままにしておく、という点では不利に働くこともあります。

例えば、「あのお店は毎週土日に混むから、今のうちに予約しておいた方が良いよ」という情報が伝えられて、実際に今予約ができるのは、言葉があるからです。

「どう生きるべきか」という情報が交換・共有できるのはすごいことですが、「どう生きるべきか」ということが定まってしまうと、「それ以外は間違いである」ということも同時に分かってしまう。つまり、「予約をしないのは愚かだ」ということが完全に分かってしまう。

この、人間が扱える高度なコミュニケーションの方法によって、僕らは自然界でとても有利に暮らせるけど、一方で間違いながら生きることができないという特徴があると思う。

間違いながら生きるという自然界には当たり前にある選択肢が実質無くなってしまうのです。

分んないまま突き進む勇気、決めつけない意思

「間違い」を予測し、共有するのも人間の言葉です。

僕らは言葉によって未来がある程度捕捉できてしまうが故に「愚かなこと」が分かってしまう。

今こうしていること、今こうしないこと、が未来にどんな結果を招くのかがある程度分かってしまう。

僕らはこう生きるのが正しい、ということをいつも知りたい。

僕らは正解を歩んでいないと不安になってしまうし、劣っていると感じてしまう。

僕らは多勢側にいるとき特に根拠なく安心してしまう生き物でもある。

これだって愚かなことに違いないけれど、みんなと大体一緒っていうのは言い知れぬ安心がある。

僕らは決めつけてしまう。多勢側にいるというだけで正解だと決めつけるし、少数側にいる人を愚かだと決めつけてしまう。

あらゆることがまだ決まってない。

決めつけるのは自らの個性とか、性質とか、形とか、そういうものを損ねてしまうことになる可能性がある。承認がなければ、自らを間違いと考えてしまうから。

当然、決めつけることは他人のそういうものを損ねてしまうことに繋がることがある。

多様なものを多様なままにしておくには、決めつけないことが大事だと思う。難しいけど。

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多様なものを多様なままにしておく工夫(完)

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