「ある概念を人に伝えるには、最低でも20000字を要する」っていつだったか聞いたことがある気がします。
いつ聞いたのか、どこで聞いたのかも思い出せず、完全に気のせいかもしれないんだけど、何となくインパクトがあったというか、記憶はあいまいなくせに妙な納得感が残っている言葉です。
そうだよな、それくらいは必要だよなって妙に納得してしまった。
これが勘違いでも、なんの根拠がなくても僕はけっこうこれを大事に思ってる。特に小説を書いたりするときはこれ大事なことなんじゃないかなと思うのです。
嬉しいという感情は本当にみんな一緒なんだろうか
例えば、「嬉しいという気持ち」を誰かに伝えようとしたら、やっぱり最低でも2万字くらいはかかってしまうと思う。
「え、嬉しいって言えば良いじゃん」って思うかもしれないんだけど、僕が感じた嬉しいという気持ちと、あなたの感じている嬉しいという気持ちが同じとは限りません。
例えば、僕の嬉しいという感覚をビジュアル的に伝えるとして、「それは黄色い風船が大きく膨らんでふわふわ浮いていくようなイメージだ」とする(適当な例えです)。
一方、他の誰かに同じように例えて貰うと、嬉しいという感情は「器から澄んだ液体が溢れているイメージだ」と答えるかもしれない。
嬉しいと言えば少なくともポジティブな感情には違いないとは思っても、こうして感覚をビジュアル的に伝えようとすると、ポジティブとかネガティブとかで判断するのも違うかなという気にもなる。
嬉しいとは黄色い風船だなんて言ってる僕なんかが「器から澄んだ液体が溢れているイメージ」を聞いたら、「それ、本当にうれしいの?」という気分になってしまうかもしれない。
だから僕らは、実はけっこう違う質感の、特殊なものを、仕方なく同じ言葉で共有しているのかもしれないのです。
全然違うものを、仕方なく共通の言葉でやりとりしてる
「概念を伝えるには2万字を要する」
どこで聞いたのだかは覚えてないんだけど、これ聞いたとき、「良い事聞いたな!」って直感的に思いました。
小説なんかを書くときは本当に気を付けなきゃいけないんじゃないか。
僕が感じている嬉しさと、隣の誰かの嬉しさは全然違うものかもしれない。
隣の誰かの感じている感情は、嬉しいのではなく、本当は「ぴねしい」とでも言った方が正しい感情かもしれない。
なんだよ「ぴねしい」って。でもそれくらい、他人の感情は見当もつかない形をしているかもしれない。
僕の中には無い感情なんだけど、強いて言えば「嬉しい」という感情に近いというだけかもしれない。
少なくとも、そのくらいに思っていた方が良いのではないか。
そうじゃないと、「鈴木は嬉しかった」と書けば、読んでいる人に「鈴木が嬉しかったこと」が伝わると思い込んでしまう。
小説は人格や感情をすべて文字で説明しなければならない
日常生活でこんなことを考える必要は全くないと思うけど、人格や感情をすべて文字で説明しつくさなければならない小説という形式では、一見単純な感情とか、概念の説明に言葉を尽くさなければなと思います。
そうじゃないと、多分すごく薄っぺらい印象になってしまうのではないか。
「概念を伝えるには20000字を要する」
なんとなく突然思い出したので、メモの記事でした。
ある概念を伝えるには最低でも20000字を要するんだって(完)
コメント